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アメノチハレ、アメツチハレ。

エヴァンゲリオン × ひふみ神示。7つの繋がり - ひふみ神示 解釈 番外篇

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※この記事は2016.6.22に個人ブログ(nakamuramakoto.net)へ投稿したものを、再編集して投稿しています。

今回はちょっと趣向を変えて、「エヴァンゲリオン」と「ひふみ神示」の繋がりについてです。福音、十字架、赤い海、アダム、7つの目、ロンギヌスの槍、使徒、燃えるような赤い目‥など。エヴァンゲリオンは表向きキリスト教の聖書の記述を中心に設定された世界観で描かれているように見えます。ですが、その裏側にはなんとなくひふみ神示が隠されているようにも感じます…。

ひふみ神示を知らない方は、「ひふみ神示 解釈1」から読んで頂けると、少し分かりやすいと思います。全文は「ひふみ神示データー」というサイトに載っています。ひふみ神示の本文を引用する場合、ほぼ全てこのサイトから引用させて頂いています。

繋がり1:渚カヲルイザナギの命、綾波レイイザナミの命?

『ナギ、ナミ夫婦神は八分通り国土を生み育てられたが、火の神を生み給ひてナミの神は去りましたのであるぞ。物質偏重の世はやがて去るべき宿命にあるぞ、心得なされよ』(至恩の巻 第八帖)

渚カヲルは、イザナギの命の”ナギ”を持ってきて、”ナギ”サ。綾波レイは、イザナミの命の”ナミ”を持ってきて、アヤ”ナミ”としたのではないかと思います。

新劇場版でアスカが惣流から式波に変わり、真希波マリというキャラクターが加わって、女性キャラが3人とも”ナミ”の付く名前になったのにも、なにか意味があるのでしょうか。

繋がり2:碇シンジ=てんし様?

『新しき御代の始めのタツの年。スメ大神の生れ出で給ひぬ』(春の巻 第一帖)

僕も「解釈3」では、新しき御代(昭和から平成に代わった時)の最初の辰年に「てんし様」が生まれてくると解釈しましたが、原作者の庵野さんもそう考えたのではないかと思います。ただ、庵野さんの場合は旧暦ではなく西暦(グレゴリオ暦)で考えて、最初の辰年の2000年に「てんし様=碇シンジ」が人の子として受精するというシナリオにしたのではないでしょうか。

繋がり3:なぜチルドレンは5人なのか?

『「あ」の身魂とは天地のまことの一つの掛替ない身魂ぞ、「や」とはその左の身魂、「わ」とは右の身魂ぞ、「や」には替へ身魂㋳あるぞ、「わ」には替へ身魂㋻あるぞ』(上つ巻 第二十六帖)

『元のキの神の子と、渡りて来た神の子と、渡りて来る神の子と三つ揃ってしまはねばならんのぞ、アとヤとワと申してあるが段々に判りて来るのざぞ』(雨の巻 第四帖)

『「ア」と「ヤ」と「ワ」は本(もと)の御用ぞ、「イ」「ウ」の身魂は介添えの御用ぞ』(上つ巻 第二十四帖)

赤い目を持つ、碇シンジ(覚醒時)と渚カヲル綾波レイの3人を神の子「ア」「ヤ」「ワ」として、「元のキの神の子=碇シンジ」、「渡りて来た神の子=白き月のアダム=渚カヲル」、「渡りて来る神の子=黒き月のリリス綾波レイ」(逆かもしれない)としたのではないかと思います。そして、綾波レイには替え(クローン?)のようなものも用意されています。

「イ」「ウ」には「アスカとトウジ」または「アスカとマリ」が当てはまるのではないでしょうか。

繋がり4:エヴァンゲリオンは「ミロクの世」への移行を描いた物語?

『今の肉体、今の想念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸はひらけんぞ、今の肉体のままでは、人民生きては行けんぞ、一度は仮死の状態にして魂も肉体も、半分のところは入れかえて、ミロクの世の人民としてよみがへらす仕組、心得なされよ、神様でさへ、この事判らん御方あるぞ、大地も転位、天も転位するぞ』(五葉の巻 第十五帖)

『大掃除はげしくなると世界の人民皆、仮四の状態となるのぢゃ、掃除終ってから因縁のミタマのみを神がつまみあげて息吹きかへしてミロクの世の人民と致すのぢゃ、因縁のミタマにはf:id:nakamuramakoto:20170611112444p:plain(カミ)のしるしがつけてあるぞ』(紫金の巻 第四帖)

エヴァンゲリオンは世界の終わりと始まりを描いた物語ではないかと僕は読み取っています。「人類補巻計画」は、ひふみ神示のこういった記述を参考にしているのではないでしょうか。

繋がり5:同じような世界がループ?

『世はグルグルと七変り、改心の為 世界の民皆、今度は引上げ一旦みなあるぞ』(黄金の巻 第七十一帖)

『今度の岩戸開きはちっとも間違ひない、まぢりけのない、マコトの神の息吹でひらくのざぞ。まぢりありたら、にごり少しでもありたら、またやり直しせなならんから くどうきつけてゐるのざぞ』(磐戸の巻 第十五帖)

TV版、映画版、漫画版で何度も同じような世界をループしているような設定になっているのは、これらの記述を参考にしているのではないかと思います。「ミロクの世」への移行をしようとしているけど、毎回「まぢりけ」が入ることで何度もやり直しているということなのかもしれません。

繋がり6:カシウスの槍=天沼矛?

『ココニ、イザナギノミコト、イザナミノミコトハ、ヌホコ、ヌホト、クミクミテ、クニウミセナトノリタマヒキ、イザナギノミコト イザナミノミコト、イキアハシタマヒテ、アウ、あうトノラセタマヒテ、クニ、ウミタマヒキ』(日月の巻 第二十四帖)

作中に、ロンギヌスの槍とカシウスの槍というアイテムが登場します。ロンギヌスの槍デストルドー(死への欲動)を象徴していて、カシウスの槍はリビドー(生、性への欲動)を象徴している可能性があるそうです。

こちらの記事を参考にさせて頂きました↓

★A.T.フィールドとロンギヌスの槍、カシウスの槍。"リビドーとデストルドー"【エヴァンゲリオンFANさいと】

こちらのサイト主さんの解釈を引き継いで考えてみると、リビドーを象徴するカシウスの槍は、恐らくロンギヌスの槍で原始の状態に戻った世界をもう一度作り固める為に必要なアイテムなのではないかと思います。古事記でいうところの「国産み」をする為の「天沼矛(あめのぬぼこ/ヌホコ)」の役割を持っているのではないでしょうか。

繋がり7:終=2016年?庵野さん56歳。

『五十二才 二(ツキ)の世の始。五十六才七ヶ月 みろくの世』(黄金の巻 第五十四帖)

今年、2016年は庵野さんが56歳の年です。上の記述を元に庵野さん自身の年齢を当てはめて、「物語の終り=ミロクの世への移行」を2016年(かあるいは数え年で2015年)にしたのではないかと思います。ただ、「Q」ではそれが延長されていますね…。


おわりに

どうでしょうか?実際のところは分かりませんが、エヴァンゲリオンひふみ神示にはなんとなく繋がりがある様に感じませんか?今回、僕があげた繋がりは7つですが、これ以外にもまだまだ見つかるかもしれません。

ひふみ神示は宗教的な感じやオカルト的な感じがして、現代の日本人からすると遠ざけたい気持ちにもなってしまいますが、エヴァンゲリオンの謎解きから入るともう少し面白く読めるのではないかと思います。興味が湧いたら、是非読んでみて下さい。全文が読めるサイトです→「ひふみ神示データー

「大丈夫。太陽と月と地球がある限り、大丈夫よ」


参考

エヴァヲタギャルが謎解き!最新Qまでネタバレ解説【エヴァンゲリオンFANさいと】
エヴァンゲリオンがさらにわかる動画:旧【最終調整版】 - YouTube

『最後の審判』と『ハルマゲドン』の正体 - ひふみ神示 解釈5

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※この記事は2016.10.8に個人ブログ(nakamuramakoto.net)へ投稿したものを、再編集して投稿しています。

主にユダヤ教キリスト教で云われている「最後の審判」や「ハルマゲドン」についても、ひふみ神示では言及されています。「解釈3」でも、ちょっとだけ触れましたが、今回はもう少し詳しく書いてみたいと思います。

ひふみ神示を知らない方は、「ひふみ神示 解釈1」から読んで頂けると、少し分かりやすいと思います。全文は「ひふみ神示データー」というサイトに載っています。ひふみ神示の本文を引用する場合、ほぼ全てこのサイトから引用させて頂いています。


一人ひとりの立て別け

『日本の国は一度つぶれた様になるのざぞ。一度は神も仏もないものと皆が思う世が来るのぞ』(上つ巻 第九帖)

『此れまでの仕組や信仰は方便のものでありたぞ。今度は正味(せうまつ)の信仰であるぞ、神に真直(ますぐ)に向ふのざぞ』(日の出の巻 第十三帖)

『一生懸命、自分の信じるように、神を小さくして自分で割り切れるように、引きづり降ろして居るなれど、困ったもんぢゃ、長くゆったりとした気持ちで神を求めて下されよ』(極めの巻 第三帖)

間違った神様を信じてしまう人や、神様を信じられない人。

と、

本当の意味で神様を信じられる人。

『世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。悪かみかかりに迷ふでないぞ。サニワせよ。外はウソが多いぞ。内の声ウソないぞ』(春の巻 第二帖)

『ウヨウヨしてゐる霊かかりにまだ、だまされて御座る人民多いのう、何と申したら判るのであるか、奇跡を求めたり、われよしのおかげを求めたり、下級な動物のイレモノとなってゐるから、囚われてゐるから、だまされるのぢゃ、霊媒の行ひをよく見ればすぐ判るでないか』(紫金の巻 第三帖)

他人を信じ過ぎて、自分を見失ってしまう人。

と、

他人の言葉を信じ過ぎず、しっかりと自分の頭で考えようとする人。

『悪神かかりたなれば自分では偉い神様がうつりてゐると信じ込むものぞ。可哀さうなれど それも己の天狗からぞ』(黄金の巻 第五十七帖)

『手は手の役、足は足、頭は頭の役、それぞれに結構ぞ。上下貴賎(貴賤上下? - 身分が高い低いの区別)ないこと、そなたには判ってゐる筈なのに、早う得心して下されよ』(月光の巻 第五十五帖)※赤字は補足/解釈

自分や特定の人物(集団)だけが偉い存在だと勘違いしてしまう人。

と、

誰が偉い偉くないではなく、皆がそれぞれの役割を果たすことで世の中が成り立っていると理解する人。

『金(かね)は要らぬのざぞ、金いるのは今しばらくぞ、生命は国にささげても金は自分のものと頑張ってゐる臣民、気の毒出来るぞ、何もかも天地へ引き上げぞと知らしてあること近づいて来たぞ、金かたきの世来たぞ』(下つ巻 第三十二帖)

『何事に向っても先づ感謝せよ。ありがたいと思へ。始はマネごとでもよいぞ。結構と思へ。幸と思へ。そこに神の力 加はるぞ。道は感謝からぞ』(春の巻 第三十六帖)

『われよしの小さいわれよしではならん。大きなわれよし結構ぞ。ぎせいになることを尊いことぢゃと申してゐるが、ぎせいに倒れてはならん。己を生かす為に他を殺すのもいかん。己殺して他をいかすのもいかん』(月光の巻 第三十三帖)

金さえあればいい、自分さえ良ければいいといった考え方で、他人を裏切ったり、騙したり、見捨てたりする人。

と、

人や自然に感謝し、自分や家族だけでなく、皆が良くなったらいいと考える人。

『何事もとがむ(非難する)でないぞ。とがむ心、天狗ぞ。神の前にへり下り、へり下っても尚過ぎると云ふことないのぢゃ。人間は、色とりどりそれぞれの考へ方を自由に与へてあるのざから、無理に引張ったり、教へたりするでないぞ。今あるもの、今生きてゐるものは、たとへ極悪ざと見えても、それは許されてゐるのであるから、あるのであるぞ。他を排すでないぞ』(黒鉄の巻 第三十一帖)※赤字は補足/解釈

『【智の中に悪をとり入れるゆとりの出来んやうではマコト成就せんぞ。智の中には総てを取入れて理解出来るやうに】なってゐるのであるぞ。愛の中に悪入れてはならんぞ』(黒鉄の巻 第十七帖)

法律上の罪を犯した者は、ただ排除すればいいと考える人。

と、

なぜその人が罪を犯してしまったのかに注目して、その問題点を改善しようとする人。

『同じ神の子ぢゃと申してゐるが、頭は頭、手は手、足は足と申してあらうが。同じことであって同じでないぞ。悪平等悪平等ぞ。世界丸つぶれのたくらみぞ』(黄金の巻 第八十八帖)

『区別すると力出るぞ、同じであってはならん。平等でなくてはならんが、区別なき平等は悪平等である』(月光の巻 第七帖)

『何も彼も存在許されてゐるものは、それだけの用あるからぞ。近目で見るから、善ぢゃ悪ぢゃと騒ぎ廻るのぞ』(黄金の巻 第六十九帖)

皆を同じ基準で評価したり、主観的な価値観や考え方で、その人の価値を勝手に決めつける人。

と、

どんな人にも、その人なりの役割があり、その人なりの価値があると考える人。

『そなたは左に傾いてゐるぞ。左を見なければならんが、片よって歩いてはならんぞ。そなたは右を歩き乍ら、それを中道と思って御座るぞ。そなたは平面上を行ってゐるから、中道のつもりで、他に中行く道はないと信じてゐるが、それでは足らんのう。立体の道を早うさとりなされよ。【正中の大道】あるのであるぞ。左でもなく右でもなく、うれしうれしの道あるぞ』(月光の巻 第五十四帖)

『今の人民いくさと申せば、人の殺し合ひと早合点するが、それは外道のいくさ。天国へのいくさもあるぞ。幽界へのいくさもあるぞ。人民の云ふ今のいくさ、今の武器は、人殺す外道の道、それではならんのう。外道なくして下されよ。外道はないのであるから、外道 抱き参らせて、正道に引き入れて下されよ』(春の巻 第四十二帖)

自分とは違う価値観や考え方を持つ者を排除しようとする人。

と、

他を受け入れて、互いに共生できる道を探していこうとする人。

『すべて世の中の出来ごとはそれ相当に意義あるのであるぞ。意義ないものは存在ゆるされん。それを人間心で、邪と見、悪と感ずるから、狭い低い立場でゐるから、いつまでたってもドウドウめぐり。それを毒とするか薬とするかは各々の立場により、考へ方や、処理方法や、いろいろの運び方によってしるのであるから、心せねばならんぞ。「今」に一生懸命になりて下されよ』(夏の巻 第二十四帖)


「ハルマゲドン」の正体

『二二は晴れたり、日本晴れ、びっくりばこ いよいよとなりたぞ。春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマゲドンとなるのざぞ、早う改心せんとハルマゲドンの大峠こせんことになるぞ。大峠となりたら どんな臣民もアフンとして もの云へんことになるのざぞ、なんとした取違ひでありたかと じだんだふんでも、其の時では間に合はんのざぞ』(磐戸の巻 第三帖)

「ハルマゲドン」と聞くと、信じる信じないは別として、善(神)の軍勢が悪(悪魔)の軍勢を打ち滅ぼす、大きな戦争のようなものをイメージする人が多いのではないかと思います。僕も以前までのイメージはそうでした。ですが、ひふみ神示には「ハルマゲドンの大峠」と書かれています。

『天の岩戸開いて地の岩戸開きにかかりてゐるのざぞ、我一(いち)力では何事も成就せんぞ、手引き合ってやりて下されと申してあること忘れるでないぞ。霊肉共に岩戸開くのであるから、実地の大峠の愈々となったらもう堪忍して呉れと何んな臣民も申すぞ』(雨の巻 第十帖)

『今迄 上にあがりて楽してゐた守護神は大峠越せん事になるぞ。肉体あるうちに改心しておかんと、霊になっての改心なかなかぞ。悪も御苦労の御役。此の方について御座れ。手引いて助けてやると申してあろが』(松の巻 第二十二帖)

『出来るだけおだやかに致したいなれど、判りた臣民 日々おわびお祈り結構致し呉れよ、大峠となりてからではいくら改心致しますと申しても、許してくれと申しても、許すことは出来んから』(梅の巻 第六帖)

「大峠」についてのこういった記述を読むと、どこかで起こる大きな戦争というより、これもまた一人ひとりが向き合うべきもののように感じます。

『世界中の洗濯ざから、いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。臣民同士のいくさでない、カミと神、アカとあか、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一』(上つ巻 第一帖)

『何につけても大いくさ。人の殺し合ひばかりでないと知らしてあらう』(秋の巻 第二十二帖)

今現在の僕の解釈としては、全世界の人々の「心の中」での戦争が「ハルマゲドン」の正体ではないかと考えています。

『釈迦もキリストも立派な神で御座るなれど、今の仏教キリスト教は偽の仏教キリスト教ざぞ。同じ神二つあると申してあらうがな』(岩の巻 第一帖)

例えば、宗教間の対立も、どちらかの宗教が勝利して、神に救われるかどうかを決める為にあるものではなく、その対立を通して教徒一人ひとりの葛藤を生み出し、それによって「どういう人間か」を立て別ける為にあるのかもしれません。

『いくさは善にもあり、悪にもあり、右には右の、左には左の、上には上の、下には下の、中には中の、外には外のいくさあるぞ。新しき御代が到来しても いくさはなくならん。いくさも歩みぞ。弥栄ぞ。ぢゃと申して今のような外道のいくさでないぞ。人殺し、生命殺すようないくさは外道。やればやる程はげしくなるぞ。正道のいくさは人を生かすいくさ、やればやるほど進むのぢゃ。今の人民いくさと申せば、人の殺し合ひと早合点するが、それは外道のいくさ。天国へのいくさもあるぞ。幽界へのいくさもあるぞ。人民の云ふ今のいくさ、今の武器は、人殺す外道の道、それではならんのう。外道なくして下されよ。外道はないのであるから、外道 抱き参らせて、正道に引き入れて下されよ。新しき霊界は神人(カミヒト)共でつくり出されるのざ。それは大いなる喜びであるからぞ。神のみ旨であるからぞ。新しき世はあけてゐるぞ。夜明ければヤミはなくなるぞ。新しきカタはこの中からぞ。日本からぞ。日本よくならねば世界はよくならん。外道の武器すてよ。外道の武器生かして、活かして、いのちを生かす弥栄の武器とせよ。かへられるでないか』(春の巻 第四十二帖)

教徒だけでなく、世界中の誰の心にも大なり小なりそういった葛藤があり、生きる上での色々な出来事を通して、個人の中の正道(価値観や考え方の違いを受け入れて、中行く道を模索する方)と、個人の中の外道(価値観や考え方の違いを受け入れず、都合の悪いものを排除する方)とが戦っているのではないかと思います。 その心の葛藤こそが「ハルマゲドン」なのではないでしょうか。ただ、ハルマゲドンは場所の名前らしいので、「ハルマゲドン = 一人ひとりの心の中」が正しいですね。

『神の臣民と獣と立て別けると申してあろうが、世の態(さま)見て早う改心して身魂洗濯致して神の御用つとめて呉れよ』(地つ巻 第三十六帖)

『今の世の様見ても未だ会得らんか。神と獣とに分けると申してあろが、早う此の神示(ふで)読み聞かせて一人でも多く救けて呉れよ』(日の出の巻 第十二帖)


最後の審判」の正体

『この方この世のあく神とも現はれるぞ、閻魔とも現はれるぞ、アクと申しても臣民の申す悪ではないぞ、善も悪もないのざぞ、審判(さばき)の時来てゐるのにキづかぬか、其の日 其の時さばかれてゐるのざぞ、早う洗濯せよ、掃除せよ』(磐戸の巻 第四帖)

歓喜に裁きのない如く、神には裁きなし。さばき説く宗教はいよいよ骨なしフニャフニャ腰となるぞ、戒律や裁きは低い段階、過去の部分的一面に過ぎん、裁きを説くのは自分で自分をさばいてゐること、人民に罪なし』(星座の巻 第二十五帖)

そして、「最後の審判」についてです。もう言いたいことが分かってしまった人もいるかもしれませんが…。僕が解釈する「最後の審判」とは、罪を裁いて罰を与えるという意味ではなく、一人ひとりをその価値観や考え方によって「立て別ける」という意味ではないかと考えています。

漢字でいうと、 善か悪かを決めつける「」ではなく、入り乱れたものを解きほぐす「」の意味に近いのかもしれません。

『人間の死後、自分の命(イノチ)の最も相応(フサワ)しい状態におかれるのであるそ。悪好きなら悪の、善好きなら善の状態におかれるのであるぞ。皆々、極楽行きぢゃ。極楽にもピンからキリまであるぞ。神の旨に添ふ極楽を天国と云ひ、添はぬ極楽を幽界と申すのぢゃ。心の世界を整理せよ。そこには無限のものが、無限にあるのであるぞ。神の理(ミチ)が判れば、判っただけ自分がわかる』(黒鉄の巻 第三十八帖)

『人民も改心しなければ、地の下に沈むことになるぞ、神が沈めるのではない、人民が自分で沈むのであるぞ、人民の心によって明るい天国への道が暗く見へ、暗い地の中への道が明るく見えるのであるぞ』(紫金の巻 第七帖)

神の裁きによって地獄に行き煮て焼かれる悪人と、神の救いによって楽園に行き優雅に暮らす善人とが別れるのではなく、一人ひとりがその価値観や考え方によってカテゴリ別けされ、生きたい世界に行き、「それぞれの天国」に住めるのではないかと解釈しています。

※以下、「解釈3」からの抜粋

『死ぬ時の想念がそのままつづくのであるから、その想念のままの世界に住むのであるぞ。この世を天国として暮す人 天国へ行くぞ。地獄の想念、地獄生むぞ』(黄金の巻 第七十五帖)

『霊界にすむものは多くの場合、自分の住む霊界以外のことは知らない。その霊界が総ての霊界であるかの如く思ふものであるぞ。同じ平面上につながる霊界のことは大体見当つくのであるなれど、段階が異なってくると判らなくなるのであるぞ。他の霊界は霊自身のもつ感覚の対象とならないからである』(竜音の巻 第九帖)

『地上天国は一国であり、一家であるが、それぞれの、又自づから異なる小天国が出来、民族の独立性もあるぞ。一色にぬりつぶすような一家となると思ふてゐるが、人間のあさはかな考へ方ぞ。考へ違ひぞ。この根本を直さねばならん。霊界の通りになるのぢゃ』(秋の巻 第九帖)

「死ぬ時の想念がそのままつづくのであるから、その想念のままの世界に住むのであるぞ」→「霊界にすむものは多くの場合、自分の住む霊界以外のことは知らない 」→「霊界の通りになるのぢゃ」

「霊界の通りになる」というのが、建直しされた後の世界のことをいっているとしたら、建直し後の世界では想念(価値観や考え方)が同じ人達が同じ世界(星?)に住むようになり、他の想念の人達とは交流することがないと解釈できます。単純に考えると、他人を受け入れて認め合いたいと思っている人は、同じように他人を受け入れて認め合いたいと思っている人達が集まった世界に行き、他人に優しくしたい人は優しくしたい人同士、他人を見下したい人は見下したい人同士、戦争をしたい人は戦争をしたい人同士で集まり、それが一つの世界になるのではないでしょうか。

『秋の空のすがすがしさが、グレンと変るぞ、地獄に住むもの地獄がよいのぞ、天国ざぞ、逆様はもう長うはつづかんぞ』(天つ巻 第六帖)

互いに認め合いたいと思っている人からすれば、他人を見下したり、争ったりする人達ばかりがいる世界は地獄のように見えるのかもしれません。ですが、そこに住む人達からすると、その状態が天国であって、逆に互いに認め合うような世界が地獄のように見えるのかもしれません。

※抜粋ここまで

『今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ、灰になる肉体であってはならん、原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、今の物質でつくった何物にも影響されない新しき生命が生れつつあるのぞ』(五葉の巻 第十六帖)

例えば、この記述のように原爆や水爆などの武器が通用しない世界というのは、武器を使って敵を攻撃したい人達にとっては、きっと面白くない世界です。なので、武器で敵を攻撃したり、脅したり、お金を儲けたいと思っている人は、武器が実力を持って他人を傷つけることが出来る世界に住めるのではないかと思います。

『進むには、それ相当の苦労と努力いるぞ。あぐらかいて、ふところ手してゐては出来ん。時もいるぞ。金もいるぞ。汗もいるぞ。血もいるぞ。涙もいるぞ。よいもの程 値が高い。今を元とし自分をもととして善ぢゃ悪ぢゃと申してはならん。よき人民 苦しみ、悪い人民 楽している』(春の巻 第五十九帖)

また、同じ価値観や考え方の人と一緒になった上で、それに対応するような人とも一緒になるのではないかと考えられます。例えば、楽して他人よりもいい思いをしたいと考えている人は、他人を騙してでもお金を儲けたいと考えている人と一緒になったりするのではないでしょうか。

『神まつれ、祖先まつれ、子孫まつれ、心まつれ、言葉まつれ、行まつれ、食物まつれ、着るものまつれ、住居まつれ、土地まつれ、感謝感謝で喜び来るぞ』(黄金の巻 第二十二帖)

また、人だけでなく色々な要素もそこに複雑に絡み合ってくるのではないかと思います。例えば、たくさんの感謝をしたい人は、その為に必要な多くの出来事と一緒になったりするのかもしれません。

『人民 栄えて行くことは、神、弥栄のことぞ。神も、人民も、世界も、宇宙も、総ていつまでも未完成ぞ。神様でも大神様は判らんのであるぞ。只、よろこびに向ってひたすらに進んで行けばよいのであるぞ。正しき喜びを先づ見極めよ。見きわめてひたすらに進めばよいのぢゃ』(春の巻 第五帖)

そして、その中で切磋琢磨しながら生き変わり死に変わり成長して弥栄していく人がいて、

『この世に生れて、この世の行せねば、生れた時より悪くなるぞ。草木より役に立たんものとなるぞ。草木に変へると申してあらう。神が変へるのでない。自分でなり下がるのであるぞ』(黄金の巻 第九十一帖)

『人民には分別与へてあるから反省できるのであるぞ。反省あるから進展するのであるぞ。ほっておいても、いらんものは無くなり、いるものは栄へるのであるが、人民の努力によっては、よりよくなるのぢゃ。省みねば生れた時より悪くなると申してあろうが』(春の巻 第九帖)

それとは逆に、人として成長できずに草木になってしまう人や、間違った方向に成長して自ら消滅していってしまう人もいるのではないかと思います。

『マツリせる者を善と云ひ、それに反する者を悪と云ふのざぞ、人々のことごとマツリ合はすはもとより、神、幽、現、の大和実践して行かねばならんのざぞ。天地(あめつち)の大祓ひと呼応して国の潔斎、人の潔斎、祓ひ清めせねばならんのざぞ、与へられた使命を果たすには潔斎せねばならんのざぞ。かへりみる(反省する)、はぢる(恥じる)、くゆる(悩む)、おそる(畏れる)、さとる(悟る)、の五つのはたらきを正しく発揮して、みそぎ祓を実践せねばならんのであるぞ』(青葉の巻 第三帖)※赤字は補足/解釈

『三千世界の大洗濯、誰一人 落したうもない神心、皆揃ふておかげやりたや、喜ぶ顔見たや、遠い近いの区別なし、皆々我が子ぢゃ、可愛い子ぢゃ、早う親の心汲みとれよ』(マツリの巻 第四帖)

『立立体』とは何か - ひふみ神示 解釈4

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※この記事は2016.4.30に個人ブログ(nakamuramakoto.net)へ投稿したものを、再編集して投稿しています。

今回は「立立体」についてです。今のところの解釈を書いていきたいと思います。

ひふみ神示を知らない方は、「ひふみ神示 解釈1」から読んで頂けると、少し分かりやすいと思います。全文は「ひふみ神示データー」というサイトに載っています。ひふみ神示の本文を引用する場合、ほぼ全てこのサイトから引用させて頂いています。

『反対の世界と合流する時、平面の上でやろうとすれば濁るばかりぢゃ、合流するには、立体でやらねばならん、立体となれば反対が反対でなくなるぞ、立体から複立体に、複々立体に、立立体にと申してあろう、漸次(ぜんじ)輪を大きく、広く、深く進めて行かねばならんぞ、それが岩戸ひらきぢゃ、低い世界は戒律なくてはならんぞ、人民の頭で、戒律と秩序、法則をゴッチャにして御座るぞ、平面と立体とをゴッチャにするのと同じ迷ひの道であるぞ、気つけ下されよ』(碧玉の巻 第一帖)

『そなたは現実世界のことばかりより判らんから、現実のことばかり申して、一に一たす二だとのみ信じてゐるが、現実界ではその通りであるが、それが平面の見方、考へ方と申すもの、いくら極めても進歩も弥栄もないのぢゃ。一に一たす一の世界、一に一たす無限の世界、超現実、霊の世界、立体の世界、立立体の世界のあることを体得せねばならんぞ。そなたは心をもって居ろうがな。心があれば心の属する世界のある道理は判るであろうが。心で描いて、心で先づつくり出してから行為することも、その順序も判るであろうがな。心のうごきが先で、肉体がその後でうごくことも判って居ろうがな。心の世界にないものは物質の世界にない道理も判って居ろうがな。何故に迷ふのぢゃ。霊界が主で現界が従であること、判って下されよ。逆立してそなた自身で苦しんでゐること、早う得心して、うれしうれしで暮して下されよ』(月光の巻 第六十二帖)

立立体とは、上向きの四角推と下向きの四角推が合わさって、交わった形ではないかと考えています。

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図形で表すと、こんな感じです。

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斜め下から見た図です。

『四つの花が五つに咲くのであるぞ、女松の五葉、男松の五葉、合せて十葉となりなりなりて笑み栄ゆる仕組、十と一(+と-)の実り、二二と輝くぞ』(紫金の巻 第十帖)

平面の四角から、一つ加わって四角推になり、立体になります。上向きの四角推が「天(霊)でム(無)」の「イザナギの神」で、下向きの四角推が「地(物)でウ(有)」の「イザナミの神」と解釈しています。五と五が合わさって十になります。

『天が上で地が下で、中にあるのぢゃ。それがミロクの世ぢゃ』(春の巻 第二十九帖)

そして、真ん中(中今)に点を入れて十一になります。これが「ミロクの世」のカタチではないかと思います。

『12345678の世界が12345678910の世となりて、012345678910の世となるのぢゃ、012345678910が【マコト】と申してあろうがな。裏表で二十二ぢゃ、二二の五ぢゃ、二二(ふじ)は晴れたり日本晴れぞ、判りたか』(至恩の巻 第十五帖)

『フトマニとは大宇宙の法則であり秩序であるぞ、神示では012345678910と示し、その裏に109876543210があるぞ、○九十(マコト)の誠であるぞ、合せて二十二、富士(普字、不二)(フジ)であるぞ。神示の始めに示してあろう。二二(富士)は晴れたり日本晴れぞ』(至恩の巻 第二帖)

さらに、表(善)の十一と裏(悪)の十一で、表裏合わせて二十二(富士)になり、

『和すが善ざぞ、乱すが悪ざぞ、働くには乱すこともあるぞ、働かねば育てては行けんなり』(青葉の巻 第十一帖)

『止まると悪となるぞ。神の理(ミチ)は弥栄ぞ。動き働いて行かなならん。善と悪との動き、心得なされよ。悪は悪ならず、悪にくむが悪』(黄金の巻 第九十八帖)

『五と五では力出んぞ、四と六、六と四、三と七、七と三でないと力生れんぞ』(雨の巻 第九帖)

それが凪(和)と波(乱)を繰り返しながら弥栄していくのではないかと思います。


「イシヤ」と手を握る?

注意:ここからは更にオカルト色が強くなります。

『コノカギハイシヤトシカテニギルコトゾ』(下つ巻 第二十二帖)

「イシヤ」と手を握るという解釈が正しいかどうかは分かりませんが、正しいとするなら、さっきの図で表した形がここにも関係してくるのではないかと思います。「イシヤ」=「フリーメーソン」=「ユダヤ人」だとすれば、そのシンボルは六芒星です。そして、日本のシンボルは菊の御紋です。

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さっきの図を簡略化して真横から見ると、上向きの三角と下向きの三角が重なったような形になり、六芒星のような形になります。

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今度は真上から見てみると、頂点が八つと重なった部分が八つで、合わせると菊の御紋と同じ十六になります。

『五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動きないぞ、六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きがないからそのままでは弥栄せんのぢゃ、666となり又六六六とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ』(碧玉の巻 第十五帖)

『今度は根本の天の御先祖様の御霊統と根元のお地(つち)の御先祖様の御霊統とが一つになりなされて、スメラ神国とユツタ(ユダヤ)神国と一つになりなされて末代動かん光の世と、影ない光の世と致すのぢゃ』(光の巻 第六帖)

2039年、一旦世界の終わり『ツキ(月/通基)の世』。2044年、再び世界の始まり『ミロク(弥勒/六六六/666)の世』 - ひふみ神示 解釈3

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※この記事は2016.4.22に個人ブログ(nakamuramakoto.net)へ投稿したものを、再編集して投稿しています。

今回は未来についての解釈です。「ミロクの世」までに何があるのか、どんな世界になるのか、いつ訪れるのかについて書いていきます。長年鍛錬した妄想力をフル活用して、最大限のスケールと最大限の自己中で解釈していきます。かなりぶっ飛んだ話になるので夢物語として読んでください。

ひふみ神示を知らない方は、「ひふみ神示 解釈1」から読んで頂けると、少し分かりやすいと思います。全文は「ひふみ神示データー」というサイトに載っています。ひふみ神示の本文を引用する場合、ほぼ全てこのサイトから引用させて頂いています。


「ツキの世」までに起こること

『次の世とは通基(月)の世の事ざぞ、一二(ひつき)の通基(二)の世ぞ』(日の出の巻 第三帖)

『大グレ目の前。アホになれよ。一先づは月の代となるぞ』(月光の巻 第九帖)

『五十二才 二(ツキ)の世の始。五十六才七ヶ月 みろくの世』(黄金の巻 第五十四帖)

「ミロクの世」がくる前に、まずは「ツキの世」がくると解釈できます。その「ツキの世」がくるまでに、今の世界で何が起こるのかをひふみ神示の記述を元に予想していきます。


・与える政治が始まる

『われよしの政治ではならんぞ、今の政治経済はわれよしであるぞ。臣民のソロバンで政治や経済してはならんぞ、神の光のやり方でないと治まらんぞ、与へる政治がまことの政治ぞよ、臣民いさむ政治とは上下まつろひ合はす政治のことぞ』(地つ巻 第十八帖)

『いくら外国人殺しても、日本人殺しても、よき世は来ないぞ。今迄のやり方、スクリかへて神の申す様にするよりほかに道ないのざ。このたびの岩戸開きは、なかなかぞと申してあろが、見て御座れ、善一筋の、与へる政治で見事建替へてみせるぞ』(風の巻 第十三帖)

与える政治で建替えると書かれています。ベーシックインカムもその内の一つでしょうか?


・上下が引っ繰り返る

『上下にグレンと引繰り返るぞ。上の者下に、落ちぶれた民 上になるぞ、岩戸開けるぞ、夜明け近づいたから、早う身魂のせんだくして呉れよ、加実の申すこと千に一つもちがはんぞ』(上つ巻 第二十帖)

『上下でんぐり返るのであるぞ。上の人が青くなり、下の人が赤くなるのであるぞ。取りちがひないように理解して下されよ』(月光の巻 第五十八帖)

『下が上に、上が下にと申してあるが、一度で治まるのでないぞ。幾度も幾度も上下にひっくりかへり、又ひっくりかへりビックリぢゃ。ビックリこねまわしぢゃ』(秋の巻 第十六帖)

上の人が下に、下の人が上にいくと書かれています。


・アメリカは世界をまとめられない?

『星の国、星の臣民 今はえらい気張り様で、世界構うやうに申してゐるが、星ではダメだぞ、神の御力でないと何も出来はせんぞ』(天つ巻 第二帖)

星の国=アメリカ?(星条旗六芒星ユダヤ人の国?)。アメリカには世界をまとめることは出来ないみたいです。


・「イシヤ(フリーメーソン?)」としっかり手を握る

『コノカギハイシヤトシカテニギルコトゾ』(下つ巻 第二十二帖)

『イシヤの仕組にかかりて、まだ目さめん臣民ばかり。日本精神と申して仏教の精神や基督教の精神ばかりぞ。今度は神があるか、ないかを、ハッキリと神力みせてイシヤも改心さすのぞ』(下つ巻 第十六帖)

『今度は根本の天の御先祖様の御霊統と根元のお地(つち)の御先祖様の御霊統とが一つになりなされて、スメラ神国とユツタ(ユダヤ)神国と一つになりなされて末代動かん光の世と、影ない光の世と致すのぢゃ』(光の巻 第六帖)

イシヤ=フリーメーソン=ユダヤ人でしょうか?


・日本のてんし様が世界をまるめる

『日本のてんし様が世界まるめてしろしめす世と致して、天地神々様にお目にかけるぞ。てんし様の光が世界の隅々まで行きわたる仕組が三四五(みよいづ)の仕組ぞ、岩戸開きぞ』(下つ巻 第二十帖)

『アは元のキの神の子ぞ。ヤとワは渡りて来た神の子ぞ。㋳㋻は渡りて来る神の子ざぞ。十の流れ、十二の流れと今に判る時来るぞ、三ツ巴現はれるぞ、メリカ、キリスも、オロシヤも、世界一つに丸めて一つの王で治めるのぢゃぞ』(光の巻 第七帖)

『統一と云ふことは赤とか白とか一色にすることではないぞ。赤もあれば黄もあり青もあるぞ。それぞれのものは皆それぞれであって一点のでくくる所に統一あるぞ。くくると申してしばるのでないぞ。磁石が北に向くよう、総て一点に向かうことであるぞ。これを公平と申し、平等と申すのぢゃ。悪平等悪平等。一色であってはならんのう』(秋の巻 第十六帖)

世界がまとまって、戦争やテロなどがなくなったらいいなと思います。


・地軸が動く

『地つちの軸 動くぞ、フニャフニャ腰がコンニャク腰になりて どうにもこうにもならんことになるぞ、其の時この神示、心棒に入れてくれよ、百人に一人位は何とか役に立つぞ』(磐戸の巻 第五帖)

地軸?磁極?とりあえず、何かが動くらしいです。


・富士山が爆発する

『富士は何時爆発するのざ、何処へ逃げたら助かるのぞと云ふ心 我れよしぞ。何処に居ても救ふ者は救ふと申してあろが。悪き待つキは悪魔のキざぞ』(水の巻 第十一帖)

富士山が爆発(噴火?)してしまうらしいです。


・一度みんな死んじゃう

『一時は天も地も一つにまぜまぜにするのざから、人一人も生きては居れんのざぞ、それが済んでから、身魂みがけた臣民ばかり、神が拾ひ上げて弥勒(みろく)の世の臣民とするのぞ、どこへ逃げても逃げ所ないと申してあろがな、高い所から水流れるやうに時に従ひて居れよ、いざといふときには神が知らして一時は天界へ釣り上げる臣民もあるのざぞ』(富士の巻 第十九帖)

『人民一度死んで下されよ、死なねば甦られん時となったのぞ、今迄の衣をぬいで下されと申してあろう、世がかわると申してあろう、地上界の総てが変るのぞ、人民のみこのままと言うわけには参らぬ、死んで生きて下されよ、タテカヘ、タテナホシ、過去と未来と同時に来て、同じところで一先づ交じり合うのであるから、人民にはガテンゆかん、新しき世となる終りのギリギリの仕上げの様相であるぞ』(星座の巻 第八帖)

『今に大き呼吸(いき)も出来んことになると知らせてあろうが、その時来たぞ、岩戸がひらけると言ふことは【半分のところは天界となることぢゃ、天界の半分は地となることぢゃ】、今の肉体、今の想念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸はひらけんぞ、今の肉体のままでは、人民生きては行けんぞ、一度は仮死の状態にして魂も肉体も、半分のところは入れかえて、ミロクの世の人民としてよみがへらす仕組、心得なされよ、神様でさへ、この事判らん御方あるぞ、大地も転位、天も転位するぞ』(五葉の巻 第十五帖)

「ツキの世」までに、おそらく全ての人間を含めた生物が、死ぬかまたは仮死状態になるのではないかと思います。


・太陽の活動が停止し、「ツキの世」がくる

『月は赤くなるぞ、日は黒くなるぞ、空はちの色となるぞ、流れもちぢゃ』(紫金の巻 第五帖)

あと5〜10年で地球は極寒に? 最新の太陽研究が予測|WIRED.jp

このWIRED.jpの記事では2030年代に太陽の活動が60%低下すると書いてありますが、僕は2039年までに一度ほぼ活動が停止してしまうと予想しています。2030年から39年にかけて太陽の活動が徐々に弱まっていき、太陽光の色温度が下がることで空や水の色が昼間でも夕方のように赤くなるのではないかと思います。そして、その後活動はほぼ停止し、太陽は暗くなり、ツキの世がくるのではないでしょうか。


「ミロクの世」と「それぞれの天国」

「ツキの世」が2039年から4年半あって、2043年に「ミロクの世」が始まると予想しています。「ミロクの世」はどんな様子になるのでしょうか。


・心地良い気温、天候

『雨も要るだけ降らしてやるぞ、風もよきやうに吹かしてやるぞ、神をたたえる声が天地にみちみちて うれしうれしの世となるのざぞ』(天つ巻 第二十帖)

『世が変りたら天地光り人も光り草も光り、石も物ごころに歌ふぞ、雨もほしい時に降り、風もほしい時に吹くと雨の神、風の神 申して居られるぞ』(下つ巻 第三十七帖)

『暑さ寒さ、やはらかくなるぞ、五六七(みろく)の世となるぞ』(天つ巻 第二十七帖)

一年中過ごしやすくなって、天災もなくなるのかもしれません。


・今迄の様なうんちやおしっこがなく、不潔なものがない

『今迄の様な大便小便 無くなるぞ。不潔と云ふもの無き世となるのざぞ。不潔物 無くなるのぞ。新しき神の世となるのざから、神々にも見当取れん光の世となるのざぞ』(夜明けの巻 第六帖)

不潔なものがないということは、病気もないのでしょうか。


・褌がいらん

『よき世となれば褌要らんのざぞ、フラリフラリと風に吹かれるヘチマぢゃ、ヘチマ愉快で嬉しひなあ、風の間に間に雨の間に間にユタリユタリと嬉しかろがな、何も彼も嬉し真から楽しき世ざぞよ』(雨の巻 第十六帖)

みんな全裸ってことかな?


・現在のような商売がない

『人力屋、酒屋、料理屋、芸妓(げいこ)屋、娼妓(しょうぎ)、無く致すぞ、世つぶす基(もと)ざぞ、菓子、饅頭も要らんぞ、煙草もくせぞ、よき世になったら別の酒、煙草、菓子、饅頭出来るぞ、勝手に造ってよいのざぞ、それ商売にはさせんぞ』(空の巻 第十三帖)

『悪はどこにもかくれること出来ん様になるのぞ、ばくち、しょうぎは無く致すぞ』(天つ巻 第二十帖)

ここに書かれているような商売をするなら、今の内かも知れません。


・自分がしたい仕事を追及していける

『百姓は百姓、鍛冶は鍛冶と、今度はとことはに定まるのぞ、身魂の因縁によりて今度はハッキリと定まって動かん神の世とするのぞ』(上つ巻 第二十八帖)

「自分がしたい仕事」とは書いてないですが、生まれた時から興味があることが、そのままその人の仕事になるのではないかと思います。現在でいう天才みたいな感じに、皆がなるのかもしれません。


・戦争がない

『神人共にとけ合ふことぞ。外道でない善と悪ととけ合ふのぞ。善のみで善ならず。悪のみで悪ならず。外道は夜明けくれば消えて了ふぞ。夜明けの御用大切と申してあろうが。外道の悪 殺すでないぞ。抱き参らすから消えるのであるぞ』(春の巻 第四十三帖)

外道のいくさ、人間同士が殺し合うような争いはなくなるのではないかと思います。


・半霊半物、調和した世界

『半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物の肉体とならねばならん、今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ、灰になる肉体であってはならん、原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、今の物質でつくった何物にも影響されない新しき生命が生れつつあるのぞ』(五葉の巻 第十六帖)

『慾、浄化して喜びとせよ。喜び何からでも生れるぞ。広い世界に住めば広く、深い世界に住めば深く向上する。物の世界から霊の世界へ、無限の世界へ入るから無限の生命が与へられるのぢゃ。無限の喜び得ること出来るのぢゃ。無限世界とは物と霊との大調和した、限りなき光の世界ぞ。真理を知ることが、無限を得ること。まことの神をつかむことぞ』(春の巻 第九帖)

半霊半物、原爆でも水爆でもビクともしない肉体になるみたいです。


・色んな物が光ってくる、身体も光ってすぐに位が分かる

『終は始ぞ、始は霊(ひ)ぞ、富士、都となるのざぞ、幽界(がいこく)行きは外国行きぞ。神の国光りて目あけて見れんことになるのざぞ、臣民の身体からも光が出るのざぞ、その光によりて その御役、位、分るのざから、みろくの世となりたら何もかもハッキリして うれしうれしの世となるのぞ、今の文明なくなるのでないぞ、たま入れていよいよ光りて来るのぞ、手握りて草木も四つあしもみな唄ふこととなるのぞ、み光にみな集まりて来るのざぞ、てんし様の御光は神の光であるのざぞ』(地つ巻 第十一帖)

『神の世と申すのは、今の臣民の思ふてゐるやうな世ではないぞ、金(きん)は要らぬのざぞ、お土からあがりたものが光りて来るのざぞ、衣類たべ物、家倉まで変るのざぞ。草木も喜ぶ政治と申してあらうがな、誰でもそれぞれに先の分る様になるのぞ。お日様もお月様も海も山も野も光り輝いて水晶の様になるのぞ』(天つ巻 第二十帖)

どんな世界でしょうか。想像がつかないです。


・人が神のようになる

『新しき世とは神なき世なりけり。人、神となる世にてありけり。世界中 人に任せて神々は楽隠居なり、あら楽し世ぞ』(風の巻 第十四帖)

自分が住んでみたい世界を自分の手で作れるようになったらいいなと思います。


・世界中に様々な時代の文明や文化が存在し、弥栄している

『人民 栄えて行くことは、神、弥栄のことぞ。神も、人民も、世界も、宇宙も、総ていつまでも未完成ぞ。神様でも大神様は判らんのであるぞ。只、よろこびに向ってひたすらに進んで行けばよいのであるぞ』(春の巻 第五帖)

『悪抱き参らせて進むところにマコトの弥栄あるのであるぞ。神は弥栄ぞ。これでよいと申すことないのであるぞ。大完成から超大大完成に向って常に弥栄してゐるのであるぞよ。宇宙は総てに於ても、個々に於ても総てよろこびからよろこびに向って呼吸してゐるのぞ』(冬の巻 第一帖)

『この神は現在も尚(なお)、太古を生み、中世を生み、現在を生み、未来を生みつつあるのぞ、この道理判りて下されよ、世界は進歩し、文明するのでないぞ、呼吸するのみぞ、脈拍するのみぞ、変化するのみぞ、ぐるぐる廻るのみぞ、歓喜弥栄とはこのことぞ』(星座の巻 第七帖)

スターウォーズスタートレックのように、それぞれの星や銀河で独自の文明や文化が存在するということでしょうか。たそがれ清兵衛であったり、ハリーポッターであったり、ブレードランナーであったり、東京ゴットファーザーズのような世界が同時に存在しているのかもしれません。


・似たもの同士が一緒になり、「それぞれの天国」で生きる

『今度は借銭済(な)しになるまでやめんから、誰によらず借銭無くなるまで苦し行せなならんぞ、借銭なしでないと、お土の上には住めん事に今度はなるぞ』(夜明けの巻 第十三帖)

『人民も改心しなければ、地の下に沈むことになるぞ、神が沈めるのではない、人民が自分で沈むのであるぞ、人民の心によって明るい天国への道が暗く見へ、暗い地の中への道が明るく見えるのであるぞ』(紫金の巻 第七帖)

『少しでも嘘偽あったら、曇りあったら、神の国に住めんことになるのざぞ』(岩の巻 第二帖)

これを読むと、全ての世界が「ミロクの世」と同じようになる訳ではなく、そこに住めない人もいるのかもしれません。

『死ぬ時の想念がそのままつづくのであるから、その想念のままの世界に住むのであるぞ。この世を天国として暮す人 天国へ行くぞ。地獄の想念、地獄生むぞ』(黄金の巻 第七十五帖)

『霊界にすむものは多くの場合、自分の住む霊界以外のことは知らない。その霊界が総ての霊界であるかの如く思ふものであるぞ。同じ平面上につながる霊界のことは大体見当つくのであるなれど、段階が異なってくると判らなくなるのであるぞ。他の霊界は霊自身のもつ感覚の対象とならないからである』(竜音の巻 第九帖)

『地上天国は一国であり、一家であるが、それぞれの、又自づから異なる小天国が出来、民族の独立性もあるぞ。一色にぬりつぶすような一家となると思ふてゐるが、人間のあさはかな考へ方ぞ。考へ違ひぞ。この根本を直さねばならん。霊界の通りになるのぢゃ』(秋の巻 第九帖)

「死ぬ時の想念がそのままつづくのであるから、その想念のままの世界に住むのであるぞ」→「霊界にすむものは多くの場合、自分の住む霊界以外のことは知らない 」→「霊界の通りになるのぢゃ」

「霊界の通りになる」というのは建直しされた後の世界のことをいっているのかもしれません。だとすると、建直し後の世界では想念が同じ人達が同じ世界(星?)に住むようになり、他の想念の人達とは交流することがないということでしょうか。単純に考えると、他人を受け入れて認め合いたいと思っている人は、同じように他人を受け入れて認め合いたいと思っている人達が集まった世界に行くと解釈できます。他人に優しくしたい人は優しくしたい人同士、他人を見下したい人は見下したい人同士、戦争をしたい人は戦争をしたい人同士で集まり、それが一つの世界になるのではないでしょうか。

『地獄に住むもの地獄がよいのぞ、天国ざぞ』(天つ巻 第六帖)

互いに認め合いたいと思っている人からすれば、他人を見下したり、争ったりする人達ばかりがいる世界は地獄のように見えるのかもしれません。ですが、そこに住む人達からすると、その状態が天国であって、逆に互いに認め合うような世界が地獄のように見えるのかもしれません。

その人の価値観や考え方に応じた世界に行き、皆が「それぞれの天国」で暮らしていくのではないかと思います。


なぜ、2039年『ツキの世』、2043年『ミロクの世』なのか

『五十二才 二(ツキ)の世の始。五十六才七ヶ月 みろくの世』(黄金の巻 第五十四帖)

この記述を元に、いつ「ミロクの世」が訪れるのかについて解釈しました。 おそらくこれは、神示によく登場する「てんし様」の年齢をいっているのではないかと思います。てんし様が52歳の時に「ツキの世」が始まり、56歳7ヶ月の時に「ミロクの世」が始まると解釈できます。なので、てんし様がいつ生まれてくるのかが解ると、いつ世が変わるのかが導き出せます。

『新しき御代の始めのタツの年。スメ大神の生れ出で給ひぬ』(春の巻 第一帖)

この記述がてんし様が生まれる年のヒントではないかと考えました。まず、「スメ大神」は「天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)」と解釈できます。

伊勢神宮においては、通常は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、あるいは皇大御神(すめおおみかみ)と言い、神職が神前にて名を唱えるときは天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)と言う

Wikipediaより

『一つの王で治めるのざぞ。天つ日嗣の実子様が世界中照らすのぞ。国のひつきの御役も大切の御役ぞ』(地つ巻 第十一帖)

『天地の先祖、元の神の天詞(てんし)様が王の王と現はれなさるぞ、王の王はタマで御現はれなされるのざぞ』(雨の巻 第十七帖)

『天詞様まつれと申してあろが。天津日嗣皇尊大神様(あまつひつぎすめらみことおほかみさま)とまつり奉れ』(夜明けの巻 第九帖)

そして、「てんし様」=「一つの王」=「天つ日嗣の実子様」=「天津日嗣皇尊」なので、ちょっと強引かもしれませんが、

「スメ大神の生れ出で給ひぬ」=「スメ大神の実子様が生まれてくる」=「てんし様が生まれてくる」と解釈しました。

では、それがいつなのかについてです。まず「タツの年」は「辰年」と解釈できます。そして、「新しき御代」の解釈はいくつかあると思いますが、一番はっきりとした解釈は天皇の治世という意味の「御代」だと思います。僕はその解釈で考えてみました。

ひふみ神示が書かれ始めた昭和19年から考えると、「新しき御代」とは昭和から平成に代わった時です。昭和天皇崩御されたのが1989年の1月7日なので、昭和から平成に代わったのは1989年です。そうすると、「新しき御代の始めのタツの年」は2000年と解釈できます。

ですが、それはグレゴリオ暦で考えた場合です。少し捻って旧暦で考えてみると、1989年1月7日は1988年11月30日(旧暦変換表より。ただ、日本で「公式な」太陰太陽暦の計算は現在行われていないそうで…正しいかどうかは分かりません)になるので、「新しき御代の始めのタツの年」は1988年と解釈できます。

そして、てんし様が1988年に生まれてくると考えて、生まれた年を元年と同じ考え方で1歳とすると、52歳の時は2039年、56歳の時は2043年という解釈になりました。

もう一つ、根拠としては乏しいですが、

『九歳(とし)は神界の紀(もと)の年ぞ、神始めの年と申せよ』(日の出の巻 第二帖)

この記述の「九歳」を「今年」と読んで、「日の出の巻」が書かれた1944年(Wikipediaの情報が正しければ…)を神界の紀元(元年)だとすると、2043年はちょうど100年目にあたります。


ごめんなさい、間違っていました(追記)

以前にやっていたブログでは2043年としていたのですが、2043年ではなく2044年が新しい世界の始まりかもしれません。(ちなみに、このブログのタイトルもここからきてます)

『百は九十九によって用(ハタラ)き、五十は四十九によって、二十は十九によって用(ハタラ)くのであるぞ、この場合、百も五十も二十も、天であり、始めであるぞ、用(ハタラ)きは地の現れ方であるぞ、フトマニとは二十の珠であり、十九は常立であるぞ、根本の宮は二十年毎に新しく致さねばならん、十九年過ぎて二十年目であるぞ。地上的考へ方で二十年を一まわりと考へてゐるが、十九年で一廻りするのであるぞ、いろは(母)の姿見よ』(碧玉の巻 第十九帖)

2043年は「癸亥」の年で、六十干支でも一番最後に当たるので、この年が一番最後にくるのではないかと思います。1944年から99年過ぎて、その次の年の2044年から新しい世界が始まると、今現在は解釈しています。

関係があるかは分かりませんが、「推背図」という中国の予言書でも、1番最後の予言が「癸亥」で終わっています。

書は十干十二支の六十の干支で象徴した六十象からなる。

Wikipediaより

"六十の干支で象徴した六十象からなる"そうなので、まあ、当たり前ではありますが…。


おわりに

今回は慢心取り違いを覚悟で、自分にとって一番都合よく解釈してみました。誰でも「自分が特別な存在だったらいいな!」って望んでいるんじゃないかと思います。僕もその一人です。

夢物語として読んでくださいと書きましたが、もしかしたらここに書いたことが正しいという可能性もあります。某テレビ番組の決め台詞を微妙にパクリますが、「何を信じるのも、何を信じないのも、個人の自由」です。これは最後まで誰にでも与えられた自由だと思います。でも、だからこそ恐くもあって、何を信じて後悔しても、何を信じずに後悔しても、それは自分自身の責任ということです。どちらに転んでも、出来るだけ後悔しない様に生きていきたいですね。

『五つの岩戸』の物語から読み取れる僕たちの課題 - ひふみ神示 解釈2

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※この記事は2016.2.9に個人ブログ(nakamuramakoto.net)へ投稿したものを、再編集して投稿しています。

ひふみ神示に登場する「五つの岩戸」の物語と、そこから読み取れる「それぞれの岩戸開き」について書いていきます。これも現時点での僕自身の解釈です。鵜呑みにはせず、参考にして頂けたら幸いです。

ひふみ神示を知らない方は、前回の「ひふみ神示 解釈1」から読んで頂けると、少し分かりやすいと思います。全文は「ひふみ神示データー」というサイトに載っています。ひふみ神示の本文を引用する場合、ほぼ全てこのサイトから引用させて頂いています。


「それぞれの岩戸開き」と「五度の岩戸閉め」

岩戸の物語で有名なのが、古事記日本書紀で描かれる「天照大神の岩戸隠れ」です。ですが、ひふみ神示にはこのような記述があります。

『岩戸(言答)びらきと申してあるが、天は天の、地は地の、人民は人民の、動植物は動植物の、それぞれの岩戸をひらくのであるから、その立場々々によって違ふところがあるぞ、それを自分のものさしで計って、岩戸ひらきとはこんなものぞと定めてゐると、いよいよ判らん時代となってくるぞ、気つけおくぞ』(至恩の巻 第一帖)

『岩戸開くと申しても、それぞれの岩戸あるぞ、大工は大工の岩戸、左官左官の岩戸と、それぞれの岩戸あるから、それぞれ身魂相当の岩戸開いて呉れよ』(下つ巻 第二帖)

「それぞれの岩戸」という記述があります。「それぞれの岩戸」は「それぞれの課題」と解釈できます。そして「それぞれ身魂相当の岩戸開いて呉れよ」とも書かれています。つまり、一人ひとりにそれぞれの課題があって、それを乗り越える必要があると読み取れます。

『それぞれの岩戸開き』=『それぞれの課題を乗り越える』

では、その「課題」とはなんでしょうか?岩戸閉めはこのように説明されています。

『岩戸は五回閉められてゐるのざぞ、那岐(なぎ)、那美(なみ)の尊の時、天照大神の時、神武天皇の時、仏来た時と、大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、その五度の岩戸閉めであるから此の度の岩戸開きはなかなかに大そうと申すのぞ』(日の出の巻 第一帖)

岩戸閉めは「天照大神の岩戸隠れ」だけではなく、五回あったと書かれています。

なぜ、五回にする必要があったのでしょうか?

僕は、この物語の中に「課題」の正体や、神示に頻繁に登場する「改心」や「洗濯」の意味が隠されていると考えました。


一つ目の岩戸開き「サニワ」

仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ』(碧玉の巻 第十帖)

仏教と一緒に仏魔が渡り来たことが最後に起こった大きな岩戸閉めとあります。おそらく仏魔というのは間違った宗教、邪教のことだと思います。

多くの邪教は「ただ信じて、拝んで、捧げていれば救われる」といった言葉で考える力を奪ったり、「信じなければ地獄に堕ちる」といった言葉で恐怖を与えて、人を支配します。そのうえで、お金や支持を集めて権力を得てしまいます。また、そういった権力を持つ宗教同士の対立や宗派対立が起こることで、争いの原因にもなってしまいます。

人間は出来るだけ悩まない楽な道を選びたいので、そういった宗教に騙されてしまい、疑わずに信じ過ぎることで行き過ぎた行動をしてしまったり、必要な悩みさえ持たなくなることで、その人の成長は止まってしまうのではないでしょうか。

他人や宗教の考え方や意見に影響を受け過ぎないようにする為に「サニワ(審神者)」が必要だと書かれています。

『世界中が霊かかりとなると申してあるのは今のことであるぞ、かかりてゐる世界自身わからなくなっているぞ、サニワせねばならん、サニワの方法書き知らすぞ。世界を、日本を、自分をサニワせねばならん。目に見へぬ所からの通信は高度のものほど肉体的には感応が弱くなり、暗示的となるものであるぞ、ドタンバタン、大声でどなり散らすのは下の下。神もフトマニに従わねばならん。順を乱すわけには参らん、高度の霊が直ちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応するのであることを忘れてはならんぞ、下級霊は現実界と紙一重の所に住んでゐるのであるから、その感応は極めて強く、如何にも尤(もっと)もらしく人民の目にうつるものであるぞ、高度のものは、その人民のミタマの如何(いかん)によって、それと同一波調の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現されるのであるぞ。特別の使命をもつ天使は、最下級の霊界まで降って来て、人民に特別な通信をなし、指示することもあるぞ。また天使の霊が母体に宿り人民として生れてくる事もあるぞ、末世にはこの種の降誕人が沢山あるぞ』(竜音の巻 第三帖)

『霊の要求ぢゃと申して、そのまま受け入れてはならんぞ、よく判断した上で処理せねばならん。下級霊、動物霊の場合は酔ひどれのように箸にも棒にもかからんことを申すものぞ。殊にその霊が病気に関連をもってゐる場合は微妙であるから、よく心得なされよ。悪い企て、悪い行為ぢゃとて、直ちにキメつけてはならん、やんわりともちかけて善きに導かねばならんぞ、悪をきらふ心があってはならん、悪抱き参らせと申してあろうがな。邪道的要求を容れて一時的に病気を治すと、それに倍してブリ返すぞ、この呼吸大切』(竜音の巻 第十七帖)

『たとへ神の言葉と申しても一応は考へよ。神の言葉でも裏表の見境なく唯に信じてはならん。サニワせよ。薬、毒となることあると申してあらうが。馬鹿正直、まことの道 見失ふことあると申してあらうが』(黄金の巻 第二十九帖)

霊懸かりや神懸かりや奇跡的に見えることを間に受けて鵜呑みにするのではなく、その裏にある思惑を疑ってみることも重要です。何事に対しても自分の頭でしっかりと考えて、見極めや判断をする必要があるのではないでしょうか。

『身も心も嬉し嬉しなるのがまことの神ぢゃ。ものの嬉しさだけではゼロぢゃ。たまの嬉しさだけでもゼロぢゃ。よく心得なされよ。死後のみ説く宗教はゼロの宗教ぢゃ。迷ふでないぞ。この世で天国に住めんもの、天国に行ける道理ないのぢゃと申してあらう。神は人間の命、人間は神の容れものであると申してあらう。人間の極まるところは神であるぞ。霊人は中間の存在ぞ。人間は神への土台ぞ。この道理判るであらうが』(黒鉄の巻 第二十一帖)

『死後の生活知らすことはよいなれど、それのみによって改心せよと迫るのは悪のやり方。奇跡を見せ、病気を直してやるのもよいのぢゃが、それのみによって改心を迫ってはならん。それのみで道を説いてはならんぞ。そんなこと位でマコトのホッコン(根本)の改心が出来るならば、人間は遠の昔に改心して御座るぞ。今迄のやうな宗教は亡びると申してあらうが。亡びる宗教に致して下さるなよ』(黒鉄の巻 第三十帖)※赤字は補足/解釈

『他の宗教に走ってはならんと云う宗教もそれだけのもの。判らんと申してもあまりであるぞ。同じ所に天国もあり、地獄もあり、霊界もあり、現実界もあり、過去も未来も中今にあるのぞ。同じ部屋に他の神や仏をまつってはならんと申す一方的なメクラ宗教にはメクラが集まるのぢゃ。病気が治ったり運がひらけたり、奇跡が起ったりするのみをおかげと思ってはならん』(月光の巻 第二十三帖)

死後に天国に行くために、今はただ苦しい思いだけをするのが正しいこととしたり、悪いことが起こっても、それを無理やりいいように捉えようとしたり、病気になったとしても、それが簡単に治ったとしたら、その人の成長には繋がりません。なぜそうなってしまったのか、原因は何だったのかを考えて改めない限り、また同じことを繰り返してしまいます。邪教の一番怖いところは、人から考える力や成長する力を奪ってしまうことです。

『地獄説く宗教は亡びるぞ。地獄と思ふもの、地獄つくって地獄に住むぞ。地獄はげしくなるぞ』(黄金の巻 第二十六帖)

『神に使はれるのは一通りや二通りの苦労では出来ん。宗教によるもののみ天国に行くと考へるもの、自分の教会のみ天国に通ずると思ふもの、皆 悪の眷族(けんぞく)ばかり。迷ふなよ。迷ふは慾からぢゃ。体験と理解のみ財産ぞ』(黄金の巻 第十六帖)※赤字は補足/解釈

自分達だけが天国に行って、他の人達は地獄に行くといった考え方は「自分さえ良ければいい(われよし)」から来ていると思います。そういった考え方の人達と、また他の同じような考え方の人達が対立することで、争いが生まれてしまいます。地獄を説いて「恐怖」で人を支配しようとする宗教は、間違った方向に向かってしまう可能性が高いのではないでしょうか。

『カミヒトと申すのは、神の弥栄(いやさか)のため、世の弥栄のため祈り、実践する人のことであるぞ。神のため祈れば神となり、世のため祈れば世と一体となるのぢゃ。自分のためばかりで祈れば迷信、われよしの下の下ぞ』(春の巻 第二帖)※赤字は補足/解釈

『われよしの小さいわれよしではならん。大きなわれよし結構ぞ。ぎせいになることを尊いことぢゃと申してゐるが、ぎせいに倒れてはならん。己を生かす為に他を殺すのもいかん。己殺して他をいかすのもいかん。大の虫を生かすため、小の虫を殺すことはやむを得んことぢゃと申したり、教へたりしてゐるが、それもならんぞ。総てを殺さずに皆が栄える道があるでないか』(月光の巻 第三十三帖)

「自分さえよければいい」の「小さいわれよし」ではなく、「自分も自分以外も、全てがよければいい」の「大きなわれよし」になることが重要なようです。

僕なりに解釈する「サニワ」の意味は
「他人や宗教の考え方や意見を鵜呑みにして考えるのを停止してしまうのではなく、一度取り入れて、自分の経験から得た考え方や別の視点の意見と闘わせることで見極めや判断をし、さらに新しい視点や確信を得ていくこと」です。


二つ目の岩戸開き「まつり」

神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ』(碧玉の巻 第十帖)

ここの解釈は難しいですが、天皇現人神として絶対的な存在としてしまったことで、天皇を中心とした階級を、一部の人間が自分勝手に作り上げてしまい、「自分より目上の人間」と「自分より目下の人間」がいるといった考え方が世の中の常識になってしまったのではないかと僕は解釈しました。そういった世の中になることで、間違った差別や蔑みが次第に生まれ、どんな人にも価値があって感謝すべき存在であることを、多くの人が忘れてしまったのではないでしょうか。

神示によく登場する「まつり」や「まつり合」といった言葉がここに当てはまるのではないかと、僕は考えます。

『まつりせよ、地(つち)にまつろへよ、天(あめ)にまつろへよ、人にまつろへよ、草木動物にまつろへよ、と、くどう知らしてあるのに未だ判らんのか、神拝む許りがまつりでないぞ』(雨の巻 第六帖)

『何事に向っても先づ感謝せよ。ありがたいと思へ。始はマネごとでもよいぞ。結構と思へ。幸と思へ。そこに神の力 加はるぞ。道は感謝からぞ』(春の巻 第三十六帖)

『宇宙の総てはこの神の現れであり、一面であるから、その何処つかんで拝んでもよいのである。その何処つかんで、すがってもよいのであるぞ。水の流れも宗教ぞと申してあらう。総てに神の息、通ふているぞ』(春の巻 第二十二帖)

日があって、水があって、土があるから食物が育つ。生産者がいて、卸売業者がいて、運送業者がいて、小売り業者がいるから食物が作られて、運ばれて、買うことが出来て、食べることが出来る。その一つ一つの流れの間にも想像出来ないくらい沢山の存在が関わっています。これはほんの一例ですが、世の中は目に見える働き、目に見えない働きが複雑に関わって廻っています。決して誰か一人の力で廻っている訳ではありません。何が目上で何が目下、何が偉くて何が偉くないではなく、それぞれが必要で、全てが感謝すべき存在だということではないでしょうか。

『何事も神にまかせて取越し苦労するなよ、我が無くてもならず、我があってもならず、今度の御用なかなか六ヶ敷いぞ』(下つ巻 第四帖)

『神にまかせきると申しても、それは自分で最善をつくして後のことぢゃ。努力なしにまかせるのは悪まかせぢゃ。悪おまかせ多いのう。魂の財産は金を得るより数倍六ヶ敷いぞ』(春の巻 第二十六帖)

『他力の中の自力ぢゃ。ぢゃと申して、まかせきったと申して、ふところ手ならん。自力大切ぢゃ。まつりは常住坐臥にあるぞ。拝むばかりではならん』(春の巻 第二十帖)

『仕事、嘉事(よごと)と申してあろがな、仕事マツリざぞ、自分の仕事おろそかならんのざぞ、仕事せよ、仕事仕へまつれと申してあろが』(青葉の巻 第五帖)

一人ひとりが世の中の一部で、歯車の一つです。自分のやるべきことを精一杯頑張ることも「まつり」の一つだと書かれています。それ以外の部分は、周りを信じて任せきることも重要なようです。

どんなに能力がある人でも、力の及ばないところ、手の回らないところはあります。その人がやるべきことに集中出来るのは、他の人が他の部分を担ってくれているからです。お金を稼いでいるか、そうでないかで見ると、優劣は付けやすいですが、本当に優れた人間かどうかというのは、また別の見方が必要なのではないでしょうか。

『まつりまつりと、くどく申して知らしてあるが、まつり合はしさへすれば、何もかも、うれしうれしと栄える仕組で、悪も善もないのぞ、まつれば悪も善ぞ、まつらねば善もないのぞ、この道理分りたか、祭典と申して神ばかり拝んでゐるやうでは何も分らんぞ。そんな我れよしでは神の臣民とは申せんぞ、早うまつりて呉れと申すこと、よくきき分けて呉れよ。われがわれがと思ふてゐるのは調和(まつり)てゐぬ証拠ぞ、鼻高となればポキンと折れると申してある道理よく分らうがな、この御道は鼻高と取りちがひが一番邪魔になるのぞと申すのは、慢心と取りちがひは調和(まつり)の邪魔になるからぞ。ここまでわけて申さばよく分かるであろう、何事も真通理(まつり)が第一ぞ』(富士の巻 第二十二帖)

『自分と云ふことが強くなるから発展ないのぢゃ。行き止まるのぢゃ。われよしとなるのぢゃ。調和が神の現れであるぞ。霊と調和せよ。肉体と調和せよ。人と調和せよ。食物、住居と調和せよ。世界と調和せよ。うれしうれしぞ。一生かかってもよいぞ。おそくないのぢゃ』(春の巻 第三十五帖)

『自分は自分一人でなく、タテにもヨコにも無限につながってゐるのであるから、その調和をはからねばならん。それが人間の使命の最も大切なことであるぞ』(冬の巻 第一帖)

僕なりに解釈する「まつり」の意味は
「互いの存在価値を認め合って、その働きに感謝し合い、苦悩や喜びを共有すること。また、力の及ばないところ、手の回らないところは周りを信じて任せながら、自分のやるべきことを精一杯頑張ること」です。


三つ目の岩戸開き「罪と積み」

『次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ』(碧玉の巻 第十帖)

神々が素盞鳴命に総ての罪を着せて追いやってしまったとあります。この物語を現実に当てはめて考えると、「法律上で罪を犯してしまった人達」と「自分の罪を罪と思わず過ごしている人達」との関係を連想します。

犯罪者の多くは、置かれた環境に大きく影響を受けて、罪を犯す心理状態にまで追いつめられてしまうのだと僕は考えています。共通の敵を作って皆でいじめたり、自分より劣った人を見下したり、価値観の違う人を排除しようとしたり、僕たちは自分が抱えているストレスを誰かにぶつけることで楽になろうとします。しかし、それをぶつけられた人は、またそのストレスを誰かにぶつけることで楽になろうとします。僕たちが犯した小さな罪は少しずつ大きくなっていき、最終的に特定の人達のところに辿り着きます。そういった人達は、そのストレスに耐えきれず、社会からはじき出されて、疎外感を抱きます。そして、自分がそうされてきたのと同様に、他人を顧みず、罪を犯してしまうのではないでしょうか。重大な犯罪の多くは、犯罪者本人やその家族だけが悪いのではなく、社会全体の価値観や考え方の歪みが現れたものではないかと思います。

『素盞鳴の大神様 罪穢れ祓ひて隠れて御座るのざぞ』(日月の巻 第三十七帖)

多くの人から生まれた罪穢れを背負い、刑務所に服役して罪を償う。犯罪者のその姿は、この物語で描かれる素盞鳴命の姿に重なる部分があるように感じます。

『今度は先づ心の建直しぢゃ、どうしたら建直るかと云ふこと、この神示読んで覚りて下されよ、今度は悪をのうにするのぢゃ、のうにするは善で抱き参らすことぢゃ、なくすることでないぞ、亡ぼすことでないぞ、このところが肝腎のところぢゃから、よく心にしめて居りて下されよ』(海の巻 第七帖)

『人民をほめること よいことぢゃ。ほめて、その非をさとらせよ。罪ゆるすことぢゃ』(春の巻 第八帖)

『お詑びすれば誰によらん、許してよき方に廻してやるぞ、口先ばかりでなく心からのお詑び結構いたしくれよ』(青葉の巻 第十四帖)

もちろん法律上で罪を犯してしまった人にも原因はあり、非はあります。人を傷つけたり、苦しめたり、悲しませた罪は、償うことで、はじめて許されると思います。

でも、彼らを裁くだけでは犯罪はなくなりません。

『人民 神とあがめよ、神となるぞ、泥棒と見るキ(心)が泥棒つくるのぢゃ』(光の巻 第三帖)※赤字は補足/解釈

『戦恐れてゐるが臣民の戦位、何が恐いのぞ、それより己の心に巣くうてる悪のみたまが恐いぞ』(富士の巻 第七帖)

他人を差別したり、蔑んだり、いじめたり、他人に苛立ちをぶつけたりすることで犯罪の小さな原因になっていないか。一人ひとりが省みて、改める必要があるのではないかと思います。

『罪を憎んでその人を憎まずとは悪のやり方、神のやり方はその罪をも憎まず』(黄金の巻 第五十三帖)

『神は喜びであるから、人の心から悪を取り除かねば神に通じないぞと教へてゐるが、それは段階の低い教であるぞ。大道でないぞ。理屈のつくり出した神であるぞ。大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせてゐるのであるぞ。抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが。今迄の教は今迄の教』(秋の巻 第一帖)

『【智の中に悪をとり入れるゆとりの出来んやうではマコト成就せんぞ。智の中には総てを取入れて理解出来るやうに】なってゐるのであるぞ。愛の中に悪入れてはならんぞ』(黒鉄の巻 第十七帖)

自分自身が悪い考え方や行いに染まってはいけないですが、悪いことをしてしまった人達の心情を知ろうとすることは大切だということではないでしょうか。

「人間のする事とは思えない」と言われるような事件の100%は人間のした事です。どんなに残忍な事件であったとしても、それをいつまでも「人間のする事とは思えない」で片付けてしまっては何の進歩もありません。

犯罪者は何故、犯罪者になるのか。罪を犯す可能性は、きっと誰にでもあります。育った環境が少しでも違えば、もしかしたら僕も重大な罪を犯していたかもしれません。犯罪者がどういった経緯で罪を犯してしまったのか。それを知ることで、自分自身や身近な人が罪を犯さないようにする為に、何をすべきで何をすべきでないのかが見えてくると思います。

補足記事:

以前に書いたものですが、こちらも参考になるかもしれません。もしよければ、読んでみて下さい。

2044.hatenablog.com
2044.hatenablog.com


四つ目の岩戸開き「それぞれの岩戸開き」

『次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にまします(いらっしゃる)のぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ』(碧玉の巻 第十帖)※赤字は補足/解釈

天照大神の岩戸隠れ」

誓約で身の潔白を証明した建速須佐之男命は、高天原に居座った。そして、田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らしたりの乱暴を働いた。他の神は天照大神に苦情をいうが、天照大神は「考えがあってのことなのだ」とスサノヲをかばった。しかし、天照大神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、建速須佐之男命が機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れたため、驚いた1人の天の服織女は梭(ひ)が陰部に刺さって死んでしまった。ここで天照大神は見畏みて、天岩戸に引き篭った。高天原葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。

Wikipediaより

勝手な解釈ではありますが、「見畏みて(恐れ多いと思って)」ということは、天照大神は怒りや恐怖が直接の原因で岩戸に閉じこもってしまったのではなく、信じていた人に裏切られたと感じたことで、自分自身の考えや判断が信じられなくなり、閉じこもってしまったのではないでしょうか。皆をまとめることが本当に出来るのか、自分はその立場に相応しい存在なのかが判らなくなり、現代でいうところの引きこもりのような状態になってしまったのではないかと考えました。

『だました岩戸からはだました神が出て、ウソの世となったのぢゃ、この道理判るであろう、ニセ神やら、だました神やら、次々に五度の岩戸閉めと申してあろが』(海の巻 第十一帖)

『ダマシタ岩戸からはダマシタ神お出でましぞ、と申してくどう知らしてあろがな、ダマシて無理に引張り出して無理するのが無理ぞと申すのぞ、無理はヤミとなるのざぞ、それでウソの世ヤミの世となって、続いてこの世の苦しみとなって来たのざぞ』(青葉の巻 第十四帖)

その後、神々が騙して、無理やりに天照大神を引っ張り出してしまったことも、闇の世となった原因と書かれています。

『光は中からぢゃ、岩戸は中からひらかれるのぢゃ』(紫金の巻 第八帖)

この物語から読み取れるのは、一人ひとりが自分自身の価値や役割を思い出すということではないかと思います。

『その人によってふさわしい行がある。誰でも同じでない。一合食べる人もあれば一升食べる人もあるぞ。身につかんもの、身につかん行は、いくらしても何もならん。いらん苦労はいらんと申してあろう』(春の巻 第五十帖)

「その人によってふさわしい行がある」という記述があります。他の岩戸(課題)は目指すところが共通なように感じますが、この岩戸は一人ひとり違ったものと解釈しています。

『岩戸開くと申しても、それぞれの岩戸あるぞ、大工は大工の岩戸、左官左官の岩戸と、それぞれの岩戸あるから、それぞれ身魂相当の岩戸開いて呉れよ』(下つ巻 第二帖)

この言葉は、ここに当てはまるのではないでしょうか。

「まつり」の内容と重なる部分もありますが、一人ひとりが世の中の歯車の一つで、必要な存在です。意味を持って生まれてきた存在だと自覚して、何をするべきかに気付いて、居るべき人が居るべきところに居ることで、世の中はさらに良くなっていくのではないかと思います。

『使命がいのち。上から、神から命ぜられたことがいのちぞ。使命はつくられた時に与えられる。使命なくてものは生れんぞ。自分の使命は内にききつつ外にきけよ。使命果たすがよろこびぞ。使命果たすには生命がけでなくてはならん。生命ぢゃからのう。努力した上にもせなならんぞ。努力には苦もあるぞ。苦のない努力ないぞ。右を動かせば左もうごくぞ。果たせば苦は楽。果たさねば楽も苦。重荷あるからこそ、苦あるからこそ、風にも倒れんのぢゃ。神が主であるぞ』(春の巻 第十八帖)

『弥栄と云ふことは歩み一歩づつ喜び増して行くことぞ。喜びの裏の苦に捉はれるから判らんことに苦しむのぢゃ。苦と楽 共に見てよと申してあらう。偶然の真理、早う悟れよ』(黄金の巻 第九十七帖)

目標を持って、何かを成し遂げようとするのは、恐怖や不安もあり、悩みや苦しみもあります。でも、それがあるからこそ、喜びは大きくなるのではないでしょうか。

『どんな草でも木でも その草木でなければならん御用あるぞ。だから生きているのぢゃ。そのはたらき御用忘れるから苦しむ。行き詰る。御用忘れるから亡びるのぢゃ。個人は個人の、一家一家の、国は国の御用がある。御用大切、御用結構。日本が変って世界となったのぢゃ。自分の為ばかりの祈りには、自分だけの神しか出て来ない。悪の祈りには悪の神。善の祈りには善の神。始めの間は中々判らんものぢゃ。神様のなされるマネから始めて下されよ』(春の巻 第十四帖)

『燈台もとへ来て、明るうなると思ひ違ひ、もとへ来てあかりとなれよ。光となれよ』(黄金の巻 第九帖)

身体や心の病気などで働けなかったり、生活に補助が必要な人もいます。現在の価値観からすれば、価値がない存在と見る人もいるかもしれませんが、そういった人達には周りの人の考え方や価値観に影響を与えるという存在価値があるのではないかと僕は思います。また、その人を支えて感謝されることで、周りの人も存在意義を得られている部分もあると思います。ちょっとクサい言い方ではありますが、天照大神が太陽の神様であるように、誰もが誰かの存在を照らす、太陽のような価値を持っているのではないでしょうか。

補足記事:

2044.hatenablog.com
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五つ目の岩戸開き「中行く道」

『岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな』(碧玉の巻 第十帖)

『ナギ、ナミ夫婦神は八分通り国土を生み育てられたが、火の神を生み給ひてナミの神は去りましたのであるぞ。物質偏重の世はやがて去るべき宿命にあるぞ、心得なされよ。ナミの神はやがて九と十の世界に住みつかれたのであるぞ。妻神に去られたナギの神は一人でモノを生むことの無理であることを知り給ひ、妻神を訪れ給ひ、相談されたのであるなれど、話が途中からコヂレて遂に別々に住み給ふ事となり、コトドを見立てられて千引の岩戸をしめ、両神の交流、歓喜、弥栄は中絶したのであるぞ』(至恩の巻 第八帖)

『千引岩をとざすに際して、ナミの神は夫神の治(し)らす国の人民を日に千人喰ひ殺すと申され、ナギの神は日に千五百の産屋(うぶや)を建てると申されたのであるぞ』(至恩の巻 第九帖)

伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)が離れ離れになってしまい、一方的になってしまったことと、仲違いしてしまったことが岩戸閉めの原因と書かれています。

『道は三つと申してあろう。三とは参であるぞ。3(スリー)でないぞと申してあろう。無限であるぞ。平面的に申せば右と左とだけでないぞ。その右の外に、又 左の外に道でなき道あるぞ。それを善の外道、悪の外道と申す。外道多いのう。中の中には中の道あるぞ』(春の巻 第三十九帖)

『この道は中行く道ぞ、左も右りも偏ってはならんぞ』(地つ巻 第四帖)

この物語からは、それぞれの対立関係にある三つ目の道、「中行く道」を見つける努力が必要だと読み取れます。

『左でもなく右でもなく、うれしうれしの道あるぞ』(月光の巻 第五十四帖)

『三が道ぞと知らしてあろう、自他の境界つくるでないぞ、おのづから自他の別と和が生れて お互に折り重なって栄へるのぢゃ、世界一家への歩み方、やり方、間違へるでないぞ』(極めの巻 第一帖)

『いくさは善にもあり、悪にもあり、右には右の、左には左の、上には上の、下には下の、中には中の、外には外のいくさあるぞ。新しき御代が到来しても いくさはなくならん。いくさも歩みぞ。弥栄ぞ。ぢゃと申して今のような外道のいくさでないぞ。人殺し、生命殺すようないくさは外道。やればやる程はげしくなるぞ。正道のいくさは人を生かすいくさ、やればやるほど進むのぢゃ。今の人民いくさと申せば、人の殺し合ひと早合点するが、それは外道のいくさ。天国へのいくさもあるぞ。幽界へのいくさもあるぞ。人民の云ふ今のいくさ、今の武器は、人殺す外道の道、それではならんのう。外道なくして下されよ。外道はないのであるから、外道 抱き参らせて、正道に引き入れて下されよ。新しき霊界は神人(カミヒト)共でつくり出されるのざ。それは大いなる喜びであるからぞ。神のみ旨であるからぞ。新しき世はあけてゐるぞ。夜明ければヤミはなくなるぞ。新しきカタはこの中からぞ。日本からぞ。日本よくならねば世界はよくならん。外道の武器すてよ。外道の武器生かして、活かして、いのちを生かす弥栄の武器とせよ。かへられるでないか』(春の巻 第四十二帖)

宗教と宗教、国家と国家、企業と企業、地域と地域、個人と個人、自分と自分、無数にある関係の中に対立があります。自分のいる立場からすれば、相反する考え方や価値観を持つ存在は邪魔だと感じます。一方を善とすれば、もう一方は悪です。相容れない存在として排除しようとすれば、神示でいうところの「外道のいくさ」が始まります。戦争はおそらく、その極みです。

『気の合う者のみの和は和ではない。色とりどりの組合せ、ねり合せこそ花さくぞ。総てが神の子ぢゃ。大神の中で弥栄ぞ。大き心、広き心、長い心 結構。中々に合わんと申すなれど、一つ家族でないか。心得なされよ。夫婦けんかするでない。夫のみいかんのでない。妻のみ悪いのでないぞ。お互に己の姿を出し合ってゐるのぞ』(月光の巻 第九帖)

『愛は養はねばならん。夫婦はいのちがけで、お互にきづき合はねばならんぞ。夫婦愛はあるのではない。築き上げねばならんぞ。生み出すのぢゃ。つくり出すのぢゃ。そこに尊さあるぞ。喜びあるぞ』(春の巻 第二十六帖)

自分とは違った立場の考え方や価値観や意見があるからこそ気付きがあり、新しい発見があり、そこにもまた成長があります。より多くを自分の中に取り入れることで、感じ取れる世界や受け容れる器が広がっていくのではないでしょうか。

夫婦関係やスポーツや学問のように、気付き合い、競い合い、切磋琢磨し合うことで互いに成長していけるようなものを「正道のいくさ」と言うのではないかと思います。

『人間を幸福にするのは心の向け方一つであるぞ。人間はいつも善と悪との中にゐるのであるから、善のみと云ふこともなく悪のみと云ふこともない。内が神に居りて外が人に和し、内が霊に居り外が体に和せば、それでよいのぢゃ。其処に喜び生れるのぢゃ。神から出た教なら、他の教とも協力して共に進まねばならん。教派や教義に囚はれるは邪の教。豚に真珠となるなよ。天国の意志は人間の喜びの中に入り、幽界の意志は悲しみの中に入る』(黒鉄の巻 第十五帖)

『禁慾は神の御旨でないぞ。慾を浄化して、生めよ。産めよ。今の人民、慾の聖化を忘れて御座るぞ。慾は無限に拡がり、次々に新しきもの生み出すぞ。慾を導けよ。自分だけならば五尺の身体、五十年の生命であるが、霊を知り、宇宙の意志を知り、神にとけ入ったならば、無限大の身体、無限の生命となるぞ。マコトの嬉し嬉しのよろこびとなるのであるぞ』(黒鉄の巻 第三十四帖)

『そなたの心の中にゐる獣(ケダモノ)、言向けねばならん。善きに導かねばならん。一生かかってもよいぞ。それが天国に行く鍵であるぞ。マコトの改心であるぞ。智慧と、愛が主の座に居らねばならん』(黄金の巻 第八十六帖)

贅沢をしたいという気持ちや、誰かに勝ちたいといった気持ちは、ほとんどの人が持っていると思います。そういった欲があるからこそ、苦悩や喜びがあり、成長や成功や創造があります。それが個人の中の「悪」の役目です。でも、間違った方向にいってしまうと、他人を騙してでもお金を得ようとしたり、他人を蹴落としてでも成功を掴もうとしてしまいます。前者は「正道の悪」で、後者は「外道の悪」だと僕は解釈しています。

また、逆にそういった欲を全て必要のないものとして、完全に排除しようとするのが「外道の善」で、自分の欲や悪いことを望んでしまうところを認めて、それをうまく諭しながら「悪」が道を外さないように導くのが、個人の中の 「善」の役目、「正道の善」なのではないかと思います。

『善と悪と取違ひ申してあらうがな、悪も善もないと申してあらうがな、和すが善ざぞ、乱すが悪ざぞ、働くには乱すこともあるぞ、働かねば育てては行けんなり』(青葉の巻 第十一帖)

『調和乱すが悪ぞ。人間のみならず、総て偏してならん。霊に偏してもならん。霊も五、体も五と申してあらう。ぢゃが主は霊であり体は従ぞ。神は主であり、人間は従であるぞ。五と五と同じであると申してあろう。差別則平等と申してあらう。取り違い禁物ぞ』(冬の巻 第一帖)

『和合した姿を善と申すのぢゃ。今迄の宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、肉体をおろそかにしてゐたが、それが間違ひであること合点か。一切がよいのぢゃと云ふこと合点か。地獄ないこと合点か。悪抱き参らせよと申してあること、これで合点か。合点ぢゃナア』(白銀の巻 第一帖)

対立はどこにでも、どんな関係にもあります。その中で互いが納得出来る道や互いに成長出来る道を探す努力が必要だということではないでしょうか。

補足記事:

2044.hatenablog.com
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