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アメノチハレ、アメツチハレ。

愛情を持つときに大切な3つの考え方

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※この記事は2014.12.24に個人ブログ(nakamuramakoto.net)へ投稿したものを、再編集して投稿しています。

今回は「愛情」というものについて、現時点での僕の考え方をまとめました。「人間が人間に対して持つ愛情」という範囲内での考え方です。小っ恥ずかしく書いていきます。

1.人間が持てる最大限の愛情は悩み続けること

「愛は心の片隅に置くところから始まって、愛情は幸せを願うところから始まる」と思います。

優しくすること、思いやること、大切にすること、信頼すること、褒めること、間違っていたらちゃんと叱ること。愛情を持った行動といわれるものは数多くあります。でも、人間である以上、その愛情が正しいかどうか本当の意味で分かっている人はいないと思います。なので、誰かに対する愛情を持つ時に一番大切なのは、正しい愛情を提供出来るかどうかではなく、その人についてどれだけ深く悩めるかどうかなのではないでしょうか。その人がその時に必要としているものは何か、与えられるものは何か、逆に与えるべきでないものは何か。その悩みは時には苦しいこともあって、やめたくなることもあります。だから休み休みでもいいと思います。それでも、その悩みを持ち続けるということが最大限の愛情を持ち続けるということだと僕は考えます。そして、その悩みが目指す方向は、やっぱり「幸せ」なのではないでしょうか。

2.自分自身に対する愛情を持たない人は自分以外の人への愛情も持つことが出来ない

周りの人には幸せになって欲しいと願っていながら、苦しみから逃げて楽になろうとしている自分がいました。その矛盾に気が付いた時から、僕はこう思い始めました。自分自身に対する愛情を持たない人は自分以外の人への愛情も持つことが出来ない。言い換えると、自分自身の幸せを願えない人は自分以外の人の幸せも願えない。僕はそう思っています。自分に先ず、自分自身の幸せを作り上げる力や感じ取る力が無ければ、周りの人にそれを与えることは出来ません。それに、もし自分の幸せを諦めてしまえば、その人の幸せを願う周りの人も心の底から幸せになることはないと気が付きました。

あと、自分以外の誰かへの愛情を持つのは、結局は自分の為なんじゃないかとも思います。自分にとって一番心地の良い居場所を知っているのは自分自身だけです。そして、その居場所を作り上げられるのも自分自身だけです。でも、その居場所を作り上げる為に必要不可欠なものが、多くの場合は自分以外の誰かの幸せなんだと思います。幸せにしてあげる為でも、もらう為でもなく、自分自身の幸せを作り上げる為に、幸せを願う自分以外の誰かは存在するのだと僕は思います。そして、そこにあるべき感情は、幸せにしてあげているという思い上がりなどではなく、幸せを願わせてもらっていることへの感謝だと思います。

3.人と人との間の中で愛情は成長していく

とはいえ、イラつくことだって、憎みたくなることだって、恨みたくなることだってあります。幸せを願うべき相手に対しても、自分自身に対しても、それ以外の人に対しても…。思い通りにならなくて、人のせいにして、突き放して、そうしてしまう自分をまた嫌ったりして…。でも、それでいいんだと思います。その距離があるからこそ、僕等はそれを埋めようと悩むことが出来て、愛情はまた成長していくんだと思います。

きっと、人と人とがどれだけ分かり合おうとしても、少しだけ残ってしまうむなしさの正体は、愛情が成長し続ける為に必要な余白のようなものなのかもしれません。

おわりに

やっぱり「愛情」のことについて書くのは難しかったです。説明不足なところもあるので、解りにくかったりもすると思います。すみません。でも、今のところの考え方はこんな感じです。また気が付いたことがあったら書いていきます。「なぜ生きる」と同様に、これについても人それぞれの考え方や正しさがあると思うので、それを見つける為の材料にして頂けたら幸いです。

なぜ生きる

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※この記事は2014.9.17に個人ブログ(nakamuramakoto.net)へ投稿したものを、再編集して投稿しています。

苦しめてきた悩み

高校卒業と同時期に悩み始めました。原因は色々あったと思います。親の離婚であったり、夢と呼べるものが無かったとか、世界中で起こっている戦争にも影響を受けたし、貧困問題だったり、環境問題だったり、そこからくる未来への不安だったり、この記事と同じタイトルのある本を読んでしまったことだったり。はっきり「これ」と言える原因は分かりませんが、その時期、僕はある疑問に飲み込まれました。

『なぜ生きる』

もう少し細かくすると、「何で生きなくちゃいけないんだろう、出来れば生きていきたくない」という感情でした。それは抜け出そうとしても、また引き込まれてしまう、蟻地獄のようなものでした。

生きる意味を悩み始めて約8年間、僕は色々なことについて考えて、悩んできました。それを紹介しようと思いますが、うまく整理することが難しいので、断片的なものを箇条書きで書いていきます。

・欲しいものはたくさんあるけど、全部は手に入らないし、手に入れたとしてもどうせまた次のものが欲しくなって切りがなくなるんだろうから、もうこれ以上は別に何もいらないかな。

・今まで結構幸せだったし、もうこれ以上は求めなくてもいいかな。

・片一方では嫌になるほど物が溢れていて、片一方では生きていけないほど物が無くて餓死する人までいる。その状況を改善しようとする人達もたくさんいて、きっと少しずつ改善していっている。でも、このまま改善していったらどうなるんだろう?人口が爆発して資源不足、水不足、食糧難。僕らは冷静でいられるのかな。医療技術が発達して寿命が延びていけば、もっとそれが加速する。もう考えるのも面倒くさい。全部あきらめてしまいたいな。

・働くのが面倒くさい。

・ニキビで悩むのが面倒くさい。

・子供を持てば、その子が暮らす未来に責任を持って生きていくことが出来るのかな。きっと僕には無理だろうな。

・どんなに頑張って生きていったとしても、きっとどこかにむなしさは残っていて、心の底から本当に幸せになることは無いと思う。

・人前が緊張するから、そういう場面が面倒くさい。自分の結婚式だってきっとそうだし、親の葬式だってきっとそうだろうな。薄情だな。そんな場面がくる前にやめてしまいたい。親の介護も面倒くさい。

・やりたい事はあるけど、特にはない。

・恋愛して結婚して幸せな家庭を持って。そんな願望もあるけど、自分の親も離婚してるし、世の中の大半の既婚者が言うように、誰かを好きになって結婚しても、その後には色んな問題が待っていて、いがみ合ったり、別れたりする。そんなところに夢を描いてもしょうがないかな。

・生きていくことに決心出来ないでいるから、誰かと深く関わることが恐い。恋人だって欲しいけど、悲しませることになるかもしれない。

・「僕らの置かれたこの状況が、もしマラソンみたいなもので、誰かが一番になって、誰かがビリになるものであるなら…。僕は一番後ろから見守るようについて行って、脱落しそうな人がいたら手を差し伸べて、ビリになる人がいないように最後にゴールしよう」そんな、ちょっとカッコつけた言い訳を逃避の理由に使ってみたいな。

・本当の意味で幸せになることはきっと無いのに、他の命を犠牲にしながら生きていく価値はあるのかな。

・あと何回、「やっぱり生きよう」と心の中で繰り返せば、最後まで生きられるんだろう。もう疲れたよ。

・戦争が無くなることはあるのかな。

・人間なんか地球上の他の生物からしたら、只々迷惑な存在なんだろうな。

・僕なんかが居ても世の中が変わることはないんだろうな。むしろ、いない方が人間一人分の環境汚染が防げるかな。

・虫が嫌いだけど、虫を殺す自分も嫌い。

・進歩していくっていうことは、きっと何かを手に入れる代わりに何かを失っていくっていうことなんだろうな。なんとなくその繰り返しが目に見えてる。目指すべきものってなんだろうか。なんだかむなしくなる。

・みんな辛いことも我慢して頑張っているのにな。それを踏みにじるような、馬鹿にするような考え方になってしまう自分が嫌い。消えてしまいたい。魂があるならそれも消してくれるように神様にお願いしてみよう。そうすれば、元々存在していなかったことに出来るかもしれない。そうすれば、みんなの記憶からも消えることが出来るかもしれない。

細かい悩みは他にもたくさんありましたが、僕自身の悩みの大部分はこんな感じのものでした。

これだけを読むと、ただの超マイナス思考なだけの人間に感じると思います。でも、まだ僕が生きているということは、それ以上のプラス思考を持っているということかもしれません。自分自身を納得させるための、僕なりの答えを必死で考えてきました。こんな人間が、どんな言い訳でまだ生きていこうとしているのか…。それについて書いていきます。

一つ目の生きる目的

何かを達成することは素晴らしいです。でも、その素晴らしさは多くの犠牲の上に成り立っています。例えば「立派な家に住む」という夢を持っていたとします。頑張ってお金を稼ぎ、住みやすい土地を探し、理想の間取りを決めて、家を建てる。それを実現すれば達成感もあり、きっと素晴らしい感情になると思います。でも少し見方を変えてみると、どうでしょうか?もしかしたら、家の材料になった木を住処にしていた生物もいるかもしれません。あるいは、建てた土地に住んでいた生物もいるかもしれません。

人間が追い求める素晴らしさと、それに伴う犠牲は、表裏一体であるから難しい。これは生きる上で避けることの出来ない「むなしさ」(ここで言うむなしさとは、苦しさ、悲しさ、寂しさ、無力感、喪失感、違和感など、心の中にある淀みのようなものをひっくるめて表現した言葉です。他にもっとふさわしい言葉があるかもしれませんが、今のところはこの言葉がしっくりきました)だと思います。

僕はこういったむなしさを「受け入れるべきむなしさ」と呼んでいます。生まれた場所、人種、性別、病気、障害、寿命があること、生きるために仕事をすること、食べていくために他の命を犠牲にすること、他人と関わること、他人よりも優れていたいと思う気持ち、清潔でいるために環境を破壊すること、贅沢をしたいと思うこと、子孫を残したいと思うこと、大切なものを守るための攻撃性も必要なこと、生きていくこと、などがそれにあたると思います。まだまだ他にもありますが、思い浮かんだものを断片的にあげました。

そして、もう一つ。「取り除くべきむなしさ」と呼んでいるものがあります。戦争、差別、偏見、格差、いじめ、自殺、殺人、過剰な欲望、家族間の問題、依存症やそこからくるトラブル、自分には価値が無いと思ってしまう心、楽しむ気力が無くなるほどの働き過ぎ、自分たちの居場所が無くなるほどの環境破壊、などがそれにあたると思います。こちらも思い浮かんだものをあげました。これらは、どうしてそうなるのかを考えて対処することで克服したり、生まないように出来るむなしさだと僕は思っています。

どのむなしさを受け入れて、どのむなしさを取り除くのか、よく考えて取捨選択をする。その判断基準は、人それぞれの部分と、全ての人に共通する部分があるのではないかと考えています。個人の中で、家族の中で、地域の中で、地球の中で、その折り合いをつけて、バランスを作り上げていく。

『受け入れるべきむなしさと、取り除くべきむなしさとの間にある、心地の良い居場所を一つずつ見つけていくこと』

これが一つ目の生きる目的です。

これについて、「恋人は欲しいけど、いない」というむなしさを例に説明してみます。顔が醜い、体型が醜い、卑屈になってる、高望みし過ぎ、人を見下してる、自信がない、仕事が出来ない、頭が悪い、出会いがない、恋人を作るのが恐い、等々。多分、この悩みを持つ多くの人が複数の問題を同時に抱えていて、その問題点の一つ一つがむなしさであるといえます。そこから何を受け入れて、何を取り除くのかを考えます。例えば、顔が醜いというむなしさを取り除きたい場合、現在では整形という方法があります。整形をすれば、綺麗な容姿を手に入れて、その容姿によって異性を魅了することで、恋人がいないというむなしさが取り除かれる可能性は高まるかもしれません。ですが、世の中には整形という方法を批判する人もいるので、その批判に晒されるというむなしさが反対側にはあります。あるいは、その批判も取り除くべきと考えて、それに向けて活動していくのもいいかもしれません。他にも、許容された地域に行ったり、知り合いと遭わないようにしながら隠し通すというむなしさを受け入れるのもいいかもしれません。

一つのむなしさを取り除くにしても、色々な問題点の見方や解決の方法、新たに生まれてきてしまうむなしさなど、複雑に絡んできます。色々な矛盾との葛藤です。

そして「恋人は欲しいけど、いない」というむなしさを「恋人は出来なくていい」ということで受け入れてしまえば、この問題自体が無くなります。実を言えば、それが今までの僕でした。でも、やっぱりそれでは心地良くありませんでした。恋人といることや、家族を持つことは、さらに多くのむなしさや葛藤を生むかもしれない恐さもあります。でも、欲しいと思うその気持ちは抑え込まずに受け入れるべきなんだと、今は思います。

数多くの対比の中で、自分自身にとって心地の良い居場所を見つけるのは物凄く大変な作業です。もしかしたら「深みのある人」というのは、その居場所を多く見つけている人なのかもしれません。

二つ目の生きる目的

ここまでは生きる上でのむなしさについて説明してきましたが、先ほど述べたように、その裏側には素晴らしさがあります。愛されて守られて育つこと、友達と遊ぶこと、何かを達成すること、旅行に行くこと、綺麗な景色を見て感動すること、素晴らしい映画を見て感動すること、贅沢をして満足すること、誰かを大好きになること、子供が生まれること、思うこと思われること、認めること認められること、楽しみな未来があること、生きていてよかったと思えること。

『人間として存在することのむなしさと、その裏にある素晴らしさを、置かれた状況の中でしっかりと味わうこと』

これが二つ目の生きる目的です。

世の中には色んな素晴らしさがあります。その全てを一生のうちに手に入れることは出来ません。また、生まれた場所、時代、肌の色、性別、性格、病気、経済状況、人間関係、等々。数多くの違いによっても手に入れられる素晴らしさは変わってきます。

置かれた状況の中でまず触れたもの、それを深くまで味わってみる。そして今度はその裏側にあるものを探ってみる。今、むなしさの深くにいる人は、その裏側に素晴らしさなんか無いと思うかもしれません。でも僕は、そのむなしさを知ることでやっと触れることの出来る素晴らしさが、その裏側にはあると思っています。大事なのはむなしさから逃げないこと。自分自身の今の感情や状況がどこから来ているのか、どうすれば克服出来るのかをしっかりと考えて、立ち向かうこと。その裏側にある素晴らしさにたどり着くまであきらめないことです。

生きることの素晴らしさを味わったのなら、今度はまたむなしさを味わってみて、それも深くまで味わったのなら、また素晴らしさを見つけに行けばいい。その先に何が有るのか、それとも無いのか、はっきりとは分かりませんが、それを繰り返す目的は

『感じとれる世界を広げる』

ということではないかと思っています。

僕自身も悩み始めてからの約8年間、むなしさばかりに目を向けてきたので、これからはまた素晴らしさを見つけに行こうと思います。

これから目指すもの

悩んできた僕ですが、何度も逃げてしまいたいと思っても、それでもあきらめずにここまで来れた理由は、やっぱり家族だったり、友達の存在があったからです。突き放さずにいてくれたことに凄く感謝しています。

今、もしあなたの近くに悩んでいる人がいて、その人を助けたいと思うなら、ただ必要としてあげてください。一緒に遊んだり、断られてもまた誘ったり、話をしたり聞いたり、一緒に笑って楽しんだり、ありがとうと言ったり。面倒くさいと思うかもしれないし、なんだよってイライラすることもあるかもしれないけど、お願いします。みんなに当てはまるかどうかは分からないけど、僕自身は実際そういうところで助けられたのかなと思います。

「縁側でお酒」

これが僕自身のこれから目指すものです。夕陽が沈むところを眺めながら、縁側に座って、そこでちょっといい日本酒を飲めたら最高だなと思います。隣に大好きな人がいればもっと素晴らしいし、子供達が走り回っててもいいかなぁ。走り回ってたと思ったら真ん中に割り込んできたりしてね…。まあ、妄想は広がっちゃうけど、飲むためのお酒だってそうだし、座るための縁側だってそう。その裏には色んな犠牲があって、むなしさがある。でも、やっぱり僕はそこに幸せを感じるし、その性は受け入れるべきだと、今は思っています。だから、そういったむなしさの隙間にこそ「感謝」が必要なんだとも思います。そして、その上で「幸せだなぁ」と実感することが「素晴らしさをしっかりと味わう」ということなんじゃないかと考えています。

不快だから、という理由で虫を殺したりする自分も嫌だったりしたけど、嫌なものは嫌だし、簡単には克服出来ないから、もうしょうがない。人間様に逆らうのが悪い、ごめん!っていう感じで殺してしまいます。まあ、逆らっちゃいないんだろうけど…人間は残酷で高慢だね。それも今は受け入れて、もう少し気持ちを楽に生きていこうと考えています。克服も出来たらいいなとは思うけどね。まだまだちっぽけだからしょうがない。

おわりに

これからもこのブログを通して、僕なりの視点で何かを発信していければいいなと思っています。小難しい感じでマイナス思考的なところはあるけど、そんな視点から…。

「なぜ生きる」とか偉そうなことを書いておいて、最後にこんな事を言ったら怒られてしまうかもしれないけど、本当に苦しかったら生きることから逃げてしまってもいいと思います。でも、僕は生まれ変わりみたいなものを信じているほうなので、死んじゃったあとはたくさん後悔して、そしてまた生まれて来ればいい。その時に生まれて来て良かったと思えるような世の中にするために、僕はもう少しだけ生きて、もう少しだけ頑張ってみようかなと思います。

焦らずに無理せずに手の届く範囲で…。

「半永久クリーン発電機」の仕組みを思い付いたよ!

 1. ドーナツ状のパイプがあり、ドーナツの真ん中を突き抜けるように円柱型の制御装置が立っていて、装置から伸びた8本のアームがドーナツを支えている。(フラフープを持った人の様なシルエット。腕は複数あるが…)

2. パイプ内部には水と磁性流体水力発電機が8機入っている。発電機はアームを通して制御装置と繋がっている。

3. 制御装置を軸に回転するバーが両側へ伸びている。回転バーの先端は永久磁石になっていて、パイプの表面とアーム部分に接触しないようにしてパイプを囲っている。

4. 初動は手動でハンドルを回し、回転バーを回転させる。

5. 回転バー先端の永久磁石がパイプ内の磁性流体を牽引し、磁性流体はパイプ内側の壁を這うように流れる。

6. 水は磁性流体の流れに合わせて流れ、水流が発生する。水流が水力発電機のタービンを回し、発電する。一定量発電ができたら、手動発電をやめる。

7. 発電した電気の何割かを使用して継続的に発電を行い、残りを使用できる電気として外部に供給する。

本当に理想とする自分の姿は人生最後の日に存在するのかもしれない

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※この記事は2014.11.5に個人ブログ(nakamuramakoto.net)へ投稿したものを、再編集して投稿しています。

世の中は、モノとかサービスとか損得とか優劣とか勝ち負けだとか、たくさんの情報や選択肢や価値基準に溢れています。そこにある日常に身を置いていると、歩むべき方向性を見失いそうになってしまいます。でも、僕はこう思います。

「人生が終わる最後の瞬間に、自身の傍らや内面にあってほしいと思うものが、その人の人生において最も大切なもの」

そして、その瞬間にこそ本当に理想とする自分の姿があるのではないかと考えています。その「最後の瞬間」までに、何を手に入れていたいのか、経験していたいのか、作り上げていたいのか、または何が必要ないのか。後悔して終わるのか、満足して終わるのか。「勝ち組・負け組」という言葉を時々耳にしますが、それは自分自身が最後に決めることだと思います。

日常の中で人生の最後を想像して生きることは難しいです。大抵は病気などで死を意識した時に考え始めるものだと思います。でも、人間の寿命が100年、300年、1000年に伸びようと、いつかは個人としても人類としても、そこに辿り着くことを忘れてはいけません。

いつかは誰もが辿り着くその瞬間を想像して生きることで、自分自身にとって最も大切なものや、その時々でどの感情に身を委ねるべきなのか、そういったものが見えてくるのではないかと思います。毎日のように考えることではないですが、何かに躓いて迷った時には考えてみて下さい。もちろん、想像したところでその終わり方が出来るかどうかは分かりません。でも、今の生き方や考え方を見つめ直すきっかけにはなるかと思います。

おわりに

こんなことを書いてみても、やっぱり難しいです。僕自身、頭では分かっていても何度も迷ってしまうし。「やってやるぞ!」と勇み足になって、すぐに疲れてしまったり。あれもこれも出来るんだってカッコつけようとして、頭がぐちゃぐちゃになって、結局全部が面倒くさくなってしまったり。そして、自分は何も出来ない人間なんだと自暴自棄になって無気力になってしまう。偉そうなことを書いておきながら、それを一番実行出来ていない人間なのかもしれないです。でも、こんなことも思います。

「一番強い者は一番弱い者でもある」

すぐに壊れてしまいそうな弱さを知っていながら、それでもまた、何度でも立ち上がれる強さを持っている者が本当の意味での強い者だと思います。だから、僕も頑張ります。弱さはもう十分に身に着けました。あとは強く成るだけです。

人をバカにしたくなった時に考えるべき5つのこと

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※この記事は2014.9.17に個人ブログ(nakamuramakoto.net)へ投稿したものを、再編集して投稿しています。

人をバカにしたり見下したくなることがあります。能力が劣っている人、失敗した人、困っている人、価値観が違う人などに対して抱く優越的な感情です。この厄介な感情を利用して自分自身を成長させる為には、どうすればいいのかについて考えてみました。

1.バカにするのではなく評価する

まず考えるべきなのは、自分がその対象をバカにできる立場にいるのか、ということです。「自分には出来ないことが出来ている人」があまり上手くいっていない時などにバカにしたくなってしまうことがあります。それはきっと、その人に対する妬みの裏返しではないかと思います。これは一番残念なパターンです。バカにするという行為だけでは、自分自身にとってプラスになることはほとんどありません。強いて言うなら、その場限りのストレス軽減と、足の引っ張り合いをする為の仲間が見つかるくらいです。ただ、悪い面だけを見て嘲笑う「バカにする」のとは違って、「自分なりの評価」はその対象から見て自分がどんな立場であっても、していいと思います。どこが良くて、どこが悪いのか、どうしたらもっと良くなるのか、自分ならどうするかなどを考えることは自分自身にとってプラスになります。

2.違った目線から見てみる

例えば、ホームレスの人をバカにしている人は多いかもしれません。社会の役に立たないとか、臭いとか、邪魔だとか。でも少し目線を変えてみるとどうでしょうか。「人間的と言われる生活を送っている人」と「ホームレスの人」、どちらの方が自然破壊をしているかと考えたら、多分前者だと思います。つまり、自然破壊をして、人間以外の生物を苦しめて、さらには自分達の首まで絞めようとしているバカはどっちの方かという目線で見ると、それは前者ということです。これは極端な例ですが、こういったことは他にもたくさんあると思います。勘違いしないで欲しいのは、ホームレスの人が正しいとかそういうことを言っているのではないです。違った目線から見て欲しいということを言っています。そうしていくことで、物事を色んな側面から見て判断する能力が付いていくのではないでしょうか。ちなみにですが、僕が思う「正しい人」とは、自分自身の問題にしっかりと立ち向かっている人です。

3.どう考えてもバカにするべきだと思った時は

でも、どうしても「こいつバカだなぁ」と思いたくなる時もあります。何度注意しても同じ失敗を繰り返してしまったり、言っていることとやっている事が違っていたり。そういう人は確かにいて、バカにされてもおかしくはないと思います。そんな時は、その人がどうしてそうなってしまうのか、どうしたらそうならないように出来るのか。イラつくこともありますが、それを一緒に考え続けてあげることが出来て、始めてその人をバカに出来る程の立場に立てるのではないでしょうか。「そんな奴の為に頭を使うなんて面倒くさい」と思っているうちは、まだその立場に立てる人間ではないということだと思います。

4.お酒の席や井戸端会議で

お酒の席や井戸端会議の時にバカにする対象があると、話が盛り上がって楽しくなります(その場にいる人をからかったりするのはそれとはまた別です)。僕としては、その時はそれでいいと思っています。その場の空気を壊してまで無理に制止する必要はないです。でも、そうしてしまった次の日には、そのバカにした対象や自分自身の感情について、少しだけ考えてみて欲しいと思います。ただ、酒の肴にする時や井戸端会議の議題にあげる時に気を付けた方がいいことがあります。それは今話している相手がバカにした対象に当てはまっていたり、相手の家族や親しい人が当てはまっている可能性があるということです。それが好意を抱いている相手だった場合、その被害は甚大です。気を付けましょう。

5.自分自身に対する不満に向き合ってみる

きっと本当の意味で自分自身に満足出来ている人は、他人をバカにする必要も見下す必要も無いのではないかと思います。なぜなら、他人と自分を比べる必要が無いからです。人をバカにしたがる人というのは、どこかに劣等感を持っていて、自分よりも劣っている人と比べることで、自分自身の価値を保っていたり、持ち上げようとするのではないかと思います。そういった不満がどこからきているのか、なぜイラついているのか、どうすればそれを解決出来るのか。人をバカにする事よりも、そこに力を注いだ方が、よっぽど自分自身の為になるのではないでしょうか。

おわりに

この記事を読んで、人をバカにしたり見下す方がバカバカしいと思ってくれる人が、今より少しでも増えてくれたら幸いです。なぜなら、誰もが持っているこの感情が、差別とか偏見とか格差とか、それに反発して起こる争いの根源なのではないかと僕は思うからです。

僕の記事には賛否両論あると思います。今までの考え方を否定された気持ちになってしまう人もいると思うので、その場合はあまり真に受けないで下さい。それに、こんなことを書いておきながら、高級そうな車が傷付けられたりしてるのを見ると「ざまーみろ!」って思ってしまう自分もいるので、あんまり人のことは言えないです。これは妬みからですね。一番残念なパターンの奴です。まだまだちっぽけだからしょうがない。自然破壊だってたくさんしているし、守ろうとする活動さえも今はまだしていないし、本当にまだまだだなと思います。でも焦らずに少しずつ自分のペースで頑張っていきます。