二〇四四

アメノチハレ、アメツチハレ。

2039年、一旦世界の終わり『ツキ(月/通基)の世』。2044年、再び世界の始まり『ミロク(弥勒/六六六/666)の世』 - ひふみ神示 解釈3

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※この記事は2016.4.22に個人ブログ(nakamuramakoto.net)へ投稿したものを、再編集して投稿しています。

今回は未来についての解釈です。「ミロクの世」までに何があるのか、どんな世界になるのか、いつ訪れるのかについて書いていきます。長年鍛錬した妄想力をフル活用して、最大限のスケールと最大限の自己中で解釈していきます。かなりぶっ飛んだ話になるので夢物語として読んでください。

ひふみ神示を知らない方は、「ひふみ神示 解釈1」から読んで頂けると、少し分かりやすいと思います。全文は「ひふみ神示データー」というサイトに載っています。ひふみ神示の本文を引用する場合、ほぼ全てこのサイトから引用させて頂いています。


「ツキの世」までに起こること

『次の世とは通基(月)の世の事ざぞ、一二(ひつき)の通基(二)の世ぞ』(日の出の巻 第三帖)

『大グレ目の前。アホになれよ。一先づは月の代となるぞ』(月光の巻 第九帖)

『五十二才 二(ツキ)の世の始。五十六才七ヶ月 みろくの世』(黄金の巻 第五十四帖)

「ミロクの世」がくる前に、まずは「ツキの世」がくると解釈できます。その「ツキの世」がくるまでに、今の世界で何が起こるのかをひふみ神示の記述を元に予想していきます。


・与える政治が始まる

『われよしの政治ではならんぞ、今の政治経済はわれよしであるぞ。臣民のソロバンで政治や経済してはならんぞ、神の光のやり方でないと治まらんぞ、与へる政治がまことの政治ぞよ、臣民いさむ政治とは上下まつろひ合はす政治のことぞ』(地つ巻 第十八帖)

『いくら外国人殺しても、日本人殺しても、よき世は来ないぞ。今迄のやり方、スクリかへて神の申す様にするよりほかに道ないのざ。このたびの岩戸開きは、なかなかぞと申してあろが、見て御座れ、善一筋の、与へる政治で見事建替へてみせるぞ』(風の巻 第十三帖)

与える政治で建替えると書かれています。ベーシックインカムもその内の一つでしょうか?


・上下が引っ繰り返る

『上下にグレンと引繰り返るぞ。上の者下に、落ちぶれた民 上になるぞ、岩戸開けるぞ、夜明け近づいたから、早う身魂のせんだくして呉れよ、加実の申すこと千に一つもちがはんぞ』(上つ巻 第二十帖)

『上下でんぐり返るのであるぞ。上の人が青くなり、下の人が赤くなるのであるぞ。取りちがひないように理解して下されよ』(月光の巻 第五十八帖)

『下が上に、上が下にと申してあるが、一度で治まるのでないぞ。幾度も幾度も上下にひっくりかへり、又ひっくりかへりビックリぢゃ。ビックリこねまわしぢゃ』(秋の巻 第十六帖)

上の人が下に、下の人が上にいくと書かれています。


・アメリカは世界をまとめられない?

『星の国、星の臣民 今はえらい気張り様で、世界構うやうに申してゐるが、星ではダメだぞ、神の御力でないと何も出来はせんぞ』(天つ巻 第二帖)

星の国=アメリカ?(星条旗六芒星ユダヤ人の国?)。アメリカには世界をまとめることは出来ないみたいです。


・「イシヤ(フリーメーソン?)」としっかり手を握る

『コノカギハイシヤトシカテニギルコトゾ』(下つ巻 第二十二帖)

『イシヤの仕組にかかりて、まだ目さめん臣民ばかり。日本精神と申して仏教の精神や基督教の精神ばかりぞ。今度は神があるか、ないかを、ハッキリと神力みせてイシヤも改心さすのぞ』(下つ巻 第十六帖)

『今度は根本の天の御先祖様の御霊統と根元のお地(つち)の御先祖様の御霊統とが一つになりなされて、スメラ神国とユツタ(ユダヤ)神国と一つになりなされて末代動かん光の世と、影ない光の世と致すのぢゃ』(光の巻 第六帖)

イシヤ=フリーメーソン=ユダヤ人でしょうか?


・日本のてんし様が世界をまるめる

『日本のてんし様が世界まるめてしろしめす世と致して、天地神々様にお目にかけるぞ。てんし様の光が世界の隅々まで行きわたる仕組が三四五(みよいづ)の仕組ぞ、岩戸開きぞ』(下つ巻 第二十帖)

『アは元のキの神の子ぞ。ヤとワは渡りて来た神の子ぞ。㋳㋻は渡りて来る神の子ざぞ。十の流れ、十二の流れと今に判る時来るぞ、三ツ巴現はれるぞ、メリカ、キリスも、オロシヤも、世界一つに丸めて一つの王で治めるのぢゃぞ』(光の巻 第七帖)

『統一と云ふことは赤とか白とか一色にすることではないぞ。赤もあれば黄もあり青もあるぞ。それぞれのものは皆それぞれであって一点のでくくる所に統一あるぞ。くくると申してしばるのでないぞ。磁石が北に向くよう、総て一点に向かうことであるぞ。これを公平と申し、平等と申すのぢゃ。悪平等悪平等。一色であってはならんのう』(秋の巻 第十六帖)

世界がまとまって、戦争やテロなどがなくなったらいいなと思います。


・地軸が動く

『地つちの軸 動くぞ、フニャフニャ腰がコンニャク腰になりて どうにもこうにもならんことになるぞ、其の時この神示、心棒に入れてくれよ、百人に一人位は何とか役に立つぞ』(磐戸の巻 第五帖)

地軸?磁極?とりあえず何かが動くらしいです。


・富士山が爆発する

『富士は何時爆発するのざ、何処へ逃げたら助かるのぞと云ふ心 我れよしぞ。何処に居ても救ふ者は救ふと申してあろが。悪き待つキは悪魔のキざぞ』(水の巻 第十一帖)

富士山が爆発(噴火?)してしまうらしいです。


・一度みんな死んじゃう

『一時は天も地も一つにまぜまぜにするのざから、人一人も生きては居れんのざぞ、それが済んでから、身魂みがけた臣民ばかり、神が拾ひ上げて弥勒(みろく)の世の臣民とするのぞ、どこへ逃げても逃げ所ないと申してあろがな、高い所から水流れるやうに時に従ひて居れよ、いざといふときには神が知らして一時は天界へ釣り上げる臣民もあるのざぞ』(富士の巻 第十九帖)

『人民一度死んで下されよ、死なねば甦られん時となったのぞ、今迄の衣をぬいで下されと申してあろう、世がかわると申してあろう、地上界の総てが変るのぞ、人民のみこのままと言うわけには参らぬ、死んで生きて下されよ、タテカヘ、タテナホシ、過去と未来と同時に来て、同じところで一先づ交じり合うのであるから、人民にはガテンゆかん、新しき世となる終りのギリギリの仕上げの様相であるぞ』(星座の巻 第八帖)

『今に大き呼吸(いき)も出来んことになると知らせてあろうが、その時来たぞ、岩戸がひらけると言ふことは【半分のところは天界となることぢゃ、天界の半分は地となることぢゃ】、今の肉体、今の想念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸はひらけんぞ、今の肉体のままでは、人民生きては行けんぞ、一度は仮死の状態にして魂も肉体も、半分のところは入れかえて、ミロクの世の人民としてよみがへらす仕組、心得なされよ、神様でさへ、この事判らん御方あるぞ、大地も転位、天も転位するぞ』(五葉の巻 第十五帖)

「ツキの世」までに、おそらく全ての人間を含めた生物が、死ぬかまたは仮死状態になるのではないかと思います。


・太陽の活動が停止し、「ツキの世」がくる

『月は赤くなるぞ、日は黒くなるぞ、空はちの色となるぞ、流れもちぢゃ』(紫金の巻 第五帖)

あと5〜10年で地球は極寒に? 最新の太陽研究が予測|WIRED.jp

このWIRED.jpの記事では2030年代に太陽の活動が60%低下すると書いてありますが、僕は2039年までに一度ほぼ活動が停止してしまうと予想しています。2030年から39年にかけて太陽の活動が徐々に弱まっていき、太陽光の色温度が下がることで空や水の色が昼間でも夕方のように赤くなるのではないかと思います。そして、その後活動はほぼ停止し、太陽は暗くなり、ツキの世がくるのではないでしょうか。


「ミロクの世」と「それぞれの天国」

「ツキの世」が2039年から4年半あって、2043年に「ミロクの世」が始まると予想しています。「ミロクの世」はどんな様子になるのでしょうか。


・心地良い気温、天候

『雨も要るだけ降らしてやるぞ、風もよきやうに吹かしてやるぞ、神をたたえる声が天地にみちみちて うれしうれしの世となるのざぞ』(天つ巻 第二十帖)

『世が変りたら天地光り人も光り草も光り、石も物ごころに歌ふぞ、雨もほしい時に降り、風もほしい時に吹くと雨の神、風の神 申して居られるぞ』(下つ巻 第三十七帖)

『暑さ寒さ、やはらかくなるぞ、五六七(みろく)の世となるぞ』(天つ巻 第二十七帖)

一年中過ごしやすくなって、天災もなくなるのかもしれません。


・今迄の様なうんちやおしっこがなく、不潔なものがない

『今迄の様な大便小便 無くなるぞ。不潔と云ふもの無き世となるのざぞ。不潔物 無くなるのぞ。新しき神の世となるのざから、神々にも見当取れん光の世となるのざぞ』(夜明けの巻 第六帖)

不潔なものがないということは、病気もないのでしょうか。


・褌がいらん

『よき世となれば褌要らんのざぞ、フラリフラリと風に吹かれるヘチマぢゃ、ヘチマ愉快で嬉しひなあ、風の間に間に雨の間に間にユタリユタリと嬉しかろがな、何も彼も嬉し真から楽しき世ざぞよ』(雨の巻 第十六帖)

みんな全裸ってことかな?


・現在のような商売がない

『人力屋、酒屋、料理屋、芸妓(げいこ)屋、娼妓(しょうぎ)、無く致すぞ、世つぶす基(もと)ざぞ、菓子、饅頭も要らんぞ、煙草もくせぞ、よき世になったら別の酒、煙草、菓子、饅頭出来るぞ、勝手に造ってよいのざぞ、それ商売にはさせんぞ』(空の巻 第十三帖)

『悪はどこにもかくれること出来ん様になるのぞ、ばくち、しょうぎは無く致すぞ』(天つ巻 第二十帖)

ここに書かれているような商売をするなら、今の内かも知れません。


・自分がしたい仕事を追及していける

『百姓は百姓、鍛冶は鍛冶と、今度はとことはに定まるのぞ、身魂の因縁によりて今度はハッキリと定まって動かん神の世とするのぞ』(上つ巻 第二十八帖)

「自分がしたい仕事」とは書いてないですが、生まれた時から興味があることが、そのままその人の仕事になるのではないかと思います。現在でいう天才みたいな感じに、皆がなるのかもしれません。


・戦争がない

『神人共にとけ合ふことぞ。外道でない善と悪ととけ合ふのぞ。善のみで善ならず。悪のみで悪ならず。外道は夜明けくれば消えて了ふぞ。夜明けの御用大切と申してあろうが。外道の悪 殺すでないぞ。抱き参らすから消えるのであるぞ』(春の巻 第四十三帖)

外道のいくさ、人間同士が殺し合うような争いはなくなるのではないかと思います。


・半霊半物、調和した世界

『半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物の肉体とならねばならん、今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ、灰になる肉体であってはならん、原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、今の物質でつくった何物にも影響されない新しき生命が生れつつあるのぞ』(五葉の巻 第十六帖)

『慾、浄化して喜びとせよ。喜び何からでも生れるぞ。広い世界に住めば広く、深い世界に住めば深く向上する。物の世界から霊の世界へ、無限の世界へ入るから無限の生命が与へられるのぢゃ。無限の喜び得ること出来るのぢゃ。無限世界とは物と霊との大調和した、限りなき光の世界ぞ。真理を知ることが、無限を得ること。まことの神をつかむことぞ』(春の巻 第九帖)

半霊半物、原爆でも水爆でもビクともしない肉体になるみたいです。


・色んな物が光ってくる、身体も光ってすぐに位が分かる

『終は始ぞ、始は霊(ひ)ぞ、富士、都となるのざぞ、幽界(がいこく)行きは外国行きぞ。神の国光りて目あけて見れんことになるのざぞ、臣民の身体からも光が出るのざぞ、その光によりて その御役、位、分るのざから、みろくの世となりたら何もかもハッキリして うれしうれしの世となるのぞ、今の文明なくなるのでないぞ、たま入れていよいよ光りて来るのぞ、手握りて草木も四つあしもみな唄ふこととなるのぞ、み光にみな集まりて来るのざぞ、てんし様の御光は神の光であるのざぞ』(地つ巻 第十一帖)

『神の世と申すのは、今の臣民の思ふてゐるやうな世ではないぞ、金(きん)は要らぬのざぞ、お土からあがりたものが光りて来るのざぞ、衣類たべ物、家倉まで変るのざぞ。草木も喜ぶ政治と申してあらうがな、誰でもそれぞれに先の分る様になるのぞ。お日様もお月様も海も山も野も光り輝いて水晶の様になるのぞ』(天つ巻 第二十帖)

どんな世界でしょうか。想像がつかないです。


・人が神のようになる

『新しき世とは神なき世なりけり。人、神となる世にてありけり。世界中 人に任せて神々は楽隠居なり、あら楽し世ぞ』(風の巻 第十四帖)

自分が住んでみたい世界を自分の手で作れるようになったらいいなと思います。


・世界中に様々な時代の文明や文化が存在し、弥栄している

『人民 栄えて行くことは、神、弥栄のことぞ。神も、人民も、世界も、宇宙も、総ていつまでも未完成ぞ。神様でも大神様は判らんのであるぞ。只、よろこびに向ってひたすらに進んで行けばよいのであるぞ』(春の巻 第五帖)

『悪抱き参らせて進むところにマコトの弥栄あるのであるぞ。神は弥栄ぞ。これでよいと申すことないのであるぞ。大完成から超大大完成に向って常に弥栄してゐるのであるぞよ。宇宙は総てに於ても、個々に於ても総てよろこびからよろこびに向って呼吸してゐるのぞ』(冬の巻 第一帖)

『この神は現在も尚(なお)、太古を生み、中世を生み、現在を生み、未来を生みつつあるのぞ、この道理判りて下されよ、世界は進歩し、文明するのでないぞ、呼吸するのみぞ、脈拍するのみぞ、変化するのみぞ、ぐるぐる廻るのみぞ、歓喜弥栄とはこのことぞ』(星座の巻 第七帖)

スターウォーズスタートレックのように、それぞれの星や銀河で独自の文明や文化が存在するということでしょうか。たそがれ清兵衛であったり、ハリーポッターであったり、ブレードランナーであったり、東京ゴットファーザーズのような世界が同時に存在しているのかもしれません。


・似たもの同士が一緒になり、「それぞれの天国」で生きる

『今度は借銭済(な)しになるまでやめんから、誰によらず借銭無くなるまで苦し行せなならんぞ、借銭なしでないと、お土の上には住めん事に今度はなるぞ』(夜明けの巻 第十三帖)

『人民も改心しなければ、地の下に沈むことになるぞ、神が沈めるのではない、人民が自分で沈むのであるぞ、人民の心によって明るい天国への道が暗く見へ、暗い地の中への道が明るく見えるのであるぞ』(紫金の巻 第七帖)

『少しでも嘘偽あったら、曇りあったら、神の国に住めんことになるのざぞ』(岩の巻 第二帖)

これを読むと、全ての世界が「ミロクの世」と同じようになる訳ではなく、そこに住めない人もいるのかもしれません。

『死ぬ時の想念がそのままつづくのであるから、その想念のままの世界に住むのであるぞ。この世を天国として暮す人 天国へ行くぞ。地獄の想念、地獄生むぞ』(黄金の巻 第七十五帖)

『霊界にすむものは多くの場合、自分の住む霊界以外のことは知らない。その霊界が総ての霊界であるかの如く思ふものであるぞ。同じ平面上につながる霊界のことは大体見当つくのであるなれど、段階が異なってくると判らなくなるのであるぞ。他の霊界は霊自身のもつ感覚の対象とならないからである』(竜音の巻 第九帖)

『地上天国は一国であり、一家であるが、それぞれの、又自づから異なる小天国が出来、民族の独立性もあるぞ。一色にぬりつぶすような一家となると思ふてゐるが、人間のあさはかな考へ方ぞ。考へ違ひぞ。この根本を直さねばならん。霊界の通りになるのぢゃ』(秋の巻 第九帖)

「死ぬ時の想念がそのままつづくのであるから、その想念のままの世界に住むのであるぞ」→「霊界にすむものは多くの場合、自分の住む霊界以外のことは知らない 」→「霊界の通りになるのぢゃ」

「霊界の通りになる」というのは建直しされた後の世界のことをいっているのかもしれません。だとすると、建直し後の世界では想念が同じ人達が同じ世界(星?)に住むようになり、他の想念の人達とは交流することがないということでしょうか。単純に考えると、他人を受け入れて認め合いたいと思っている人は、同じように他人を受け入れて認め合いたいと思っている人達が集まった世界に行くと解釈できます。他人に優しくしたい人は優しくしたい人同士、他人を見下したい人は見下したい人同士、戦争をしたい人は戦争をしたい人同士で集まり、それが一つの世界になるのではないでしょうか。

『地獄に住むもの地獄がよいのぞ、天国ざぞ』(天つ巻 第六帖)

互いに認め合いたいと思っている人からすれば、他人を見下したり、争ったりする人達ばかりがいる世界は地獄のように見えるのかもしれません。ですが、そこに住む人達からすると、その状態が天国であって、逆に互いに認め合うような世界が地獄のように見えるのかもしれません。

その人の価値観や考え方に応じた世界に行き、皆が「それぞれの天国」で暮らしていくのではないかと思います。


なぜ、2039年『ツキの世』、2043年『ミロクの世』なのか

『五十二才 二(ツキ)の世の始。五十六才七ヶ月 みろくの世』(黄金の巻 第五十四帖)

この記述を元に、いつ「ミロクの世」が訪れるのかについて解釈しました。 おそらくこれは、神示によく登場する「てんし様」の年齢をいっているのではないかと思います。てんし様が52歳の時に「ツキの世」が始まり、56歳7ヶ月の時に「ミロクの世」が始まると解釈できます。なので、てんし様がいつ生まれてくるのかが解ると、いつ世が変わるのかが導き出せます。

『新しき御代の始めのタツの年。スメ大神の生れ出で給ひぬ』(春の巻 第一帖)

この記述がてんし様が生まれる年のヒントではないかと考えました。まず、「スメ大神」は「天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)」と解釈できます。

伊勢神宮においては、通常は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、あるいは皇大御神(すめおおみかみ)と言い、神職が神前にて名を唱えるときは天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)と言う

Wikipediaより

『一つの王で治めるのざぞ。天つ日嗣の実子様が世界中照らすのぞ。国のひつきの御役も大切の御役ぞ』(地つ巻 第十一帖)

『天地の先祖、元の神の天詞(てんし)様が王の王と現はれなさるぞ、王の王はタマで御現はれなされるのざぞ』(雨の巻 第十七帖)

『天詞様まつれと申してあろが。天津日嗣皇尊大神様(あまつひつぎすめらみことおほかみさま)とまつり奉れ』(夜明けの巻 第九帖)

そして、「てんし様」=「一つの王」=「天つ日嗣の実子様」=「天津日嗣皇尊」なので、ちょっと強引かもしれませんが、

「スメ大神の生れ出で給ひぬ」=「スメ大神の実子様が生まれてくる」=「てんし様が生まれてくる」と解釈しました。

では、それがいつなのかについてです。まず「タツの年」は「辰年」と解釈できます。そして、「新しき御代」の解釈はいくつかあると思いますが、一番はっきりとした解釈は天皇の治世という意味の「御代」だと思います。僕はその解釈で考えてみました。

ひふみ神示が書かれ始めた昭和19年から考えると、「新しき御代」とは昭和から平成に代わった時です。昭和天皇崩御されたのが1989年の1月7日なので、昭和から平成に代わったのは1989年です。そうすると、「新しき御代の始めのタツの年」は2000年と解釈できます。

ですが、それはグレゴリオ暦で考えた場合です。少し捻って旧暦で考えてみると、1989年1月7日は1988年11月30日(旧暦変換表より。ただ、日本で「公式な」太陰太陽暦の計算は現在行われていないそうで…正しいかどうかは分かりません)になるので、「新しき御代の始めのタツの年」は1988年と解釈できます。

そして、てんし様が1988年に生まれてくると考えて、生まれた年を元年と同じ考え方で1歳とすると、52歳の時は2039年、56歳の時は2043年という解釈になりました。

もう一つ、根拠としては乏しいですが、

『九歳(とし)は神界の紀(もと)の年ぞ、神始めの年と申せよ』(日の出の巻 第二帖)

この記述の「九歳」を「今年」と読んで、「日の出の巻」が書かれた1944年(Wikipediaの情報が正しければ…)を神界の紀元(元年)だとすると、2043年はちょうど100年目にあたります。


ごめんなさい、間違っていました(追記)

以前にやっていたブログでは2043年としていたのですが、2043年ではなく2044年が新しい世界の始まりかもしれません。(ちなみに、このブログのタイトルもここからきてます)

『百は九十九によって用(ハタラ)き、五十は四十九によって、二十は十九によって用(ハタラ)くのであるぞ、この場合、百も五十も二十も、天であり、始めであるぞ、用(ハタラ)きは地の現れ方であるぞ、フトマニとは二十の珠であり、十九は常立であるぞ、根本の宮は二十年毎に新しく致さねばならん、十九年過ぎて二十年目であるぞ。地上的考へ方で二十年を一まわりと考へてゐるが、十九年で一廻りするのであるぞ、いろは(母)の姿見よ』(碧玉の巻 第十九帖)

2043年は「癸亥」の年で、六十干支でも一番最後に当たるので、この年が一番最後にくるのではないかと思います。1944年から99年過ぎて、その次の年の2044年から新しい世界が始まると、今現在は解釈しています。

関係があるかは分かりませんが、「推背図」という中国の予言書でも、1番最後の予言が「癸亥」で終わっています。

書は十干十二支の六十の干支で象徴した六十象からなる。

Wikipediaより

"六十の干支で象徴した六十象からなる"そうなので、まあ、当たり前ではありますが…。


おわりに

今回は慢心取り違いを覚悟で、自分にとって一番都合よく解釈してみました。誰でも「自分が特別な存在だったらいいな!」って望んでいるんじゃないかと思います。僕もその一人です。

夢物語として読んでくださいと書きましたが、もしかしたらここに書いたことが正しいという可能性もあります。某テレビ番組の決め台詞を微妙にパクリますが、「何を信じるのも、何を信じないのも、個人の自由」です。これは最後まで誰にでも与えられた自由だと思います。でも、だからこそ恐くもあって、何を信じて後悔しても、何を信じずに後悔しても、それは自分自身の責任ということです。どちらに転んでも、出来るだけ後悔しない様に生きていきたいですね。

『五つの岩戸』の物語から読み取れる僕たちの課題 - ひふみ神示 解釈2

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※この記事は2016.2.9に個人ブログ(nakamuramakoto.net)へ投稿したものを、再編集して投稿しています。

ひふみ神示に登場する「五つの岩戸」の物語と、そこから読み取れる「それぞれの岩戸開き」について書いていきます。これも現時点での僕自身の解釈です。鵜呑みにはせず、参考にして頂けたら幸いです。

ひふみ神示を知らない方は、前回の「ひふみ神示 解釈1」から読んで頂けると、少し分かりやすいと思います。全文は「ひふみ神示データー」というサイトに載っています。ひふみ神示の本文を引用する場合、ほぼ全てこのサイトから引用させて頂いています。


「それぞれの岩戸開き」と「五度の岩戸閉め」

岩戸の物語で有名なのが、古事記日本書紀で描かれる「天照大神の岩戸隠れ」です。ですが、ひふみ神示にはこのような記述があります。

『岩戸(言答)びらきと申してあるが、天は天の、地は地の、人民は人民の、動植物は動植物の、それぞれの岩戸をひらくのであるから、その立場々々によって違ふところがあるぞ、それを自分のものさしで計って、岩戸ひらきとはこんなものぞと定めてゐると、いよいよ判らん時代となってくるぞ、気つけおくぞ』(至恩の巻 第一帖)

『岩戸開くと申しても、それぞれの岩戸あるぞ、大工は大工の岩戸、左官左官の岩戸と、それぞれの岩戸あるから、それぞれ身魂相当の岩戸開いて呉れよ』(下つ巻 第二帖)

「それぞれの岩戸」という記述があります。「それぞれの岩戸」は「それぞれの課題」と解釈できます。そして「それぞれ身魂相当の岩戸開いて呉れよ」とも書かれています。つまり、一人ひとりにそれぞれの課題があって、それを乗り越える必要があると読み取れます。

『それぞれの岩戸開き』=『それぞれの課題を乗り越える』

では、その「課題」とはなんでしょうか?岩戸閉めはこのように説明されています。

『岩戸は五回閉められてゐるのざぞ、那岐(なぎ)、那美(なみ)の尊の時、天照大神の時、神武天皇の時、仏来た時と、大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、その五度の岩戸閉めであるから此の度の岩戸開きはなかなかに大そうと申すのぞ』(日の出の巻 第一帖)

岩戸閉めは「天照大神の岩戸隠れ」だけではなく、五回あったと書かれています。

なぜ、五回にする必要があったのでしょうか?

僕は、この物語の中に「課題」の正体や、神示に頻繁に登場する「改心」や「洗濯」の意味が隠されていると考えました。


一つ目の岩戸開き「サニワ」

仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ』(碧玉の巻 第十帖)

仏教と一緒に仏魔が渡り来たことが最後に起こった大きな岩戸閉めとあります。おそらく仏魔というのは間違った宗教、邪教のことだと思います。

多くの邪教は「ただ信じて、拝んで、捧げていれば救われる」といった言葉で考える力を奪ったり、「信じなければ地獄に堕ちる」といった言葉で恐怖を与えて、人を支配します。そのうえで、お金や支持を集めて権力を得てしまいます。また、そういった権力を持つ宗教同士の対立や宗派対立が起こることで、争いの原因にもなってしまいます。

人間は出来るだけ悩まない楽な道を選びたいので、そういった宗教に騙されてしまい、疑わずに信じ過ぎることで行き過ぎた行動をしてしまったり、必要な悩みさえ持たなくなることで、その人の成長は止まってしまうのではないでしょうか。

他人や宗教の考え方や意見に影響を受け過ぎないようにする為に「サニワ(審神者)」が必要だと書かれています。

『世界中が霊かかりとなると申してあるのは今のことであるぞ、かかりてゐる世界自身わからなくなっているぞ、サニワせねばならん、サニワの方法書き知らすぞ。世界を、日本を、自分をサニワせねばならん。目に見へぬ所からの通信は高度のものほど肉体的には感応が弱くなり、暗示的となるものであるぞ、ドタンバタン、大声でどなり散らすのは下の下。神もフトマニに従わねばならん。順を乱すわけには参らん、高度の霊が直ちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応するのであることを忘れてはならんぞ、下級霊は現実界と紙一重の所に住んでゐるのであるから、その感応は極めて強く、如何にも尤(もっと)もらしく人民の目にうつるものであるぞ、高度のものは、その人民のミタマの如何(いかん)によって、それと同一波調の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現されるのであるぞ。特別の使命をもつ天使は、最下級の霊界まで降って来て、人民に特別な通信をなし、指示することもあるぞ。また天使の霊が母体に宿り人民として生れてくる事もあるぞ、末世にはこの種の降誕人が沢山あるぞ』(竜音の巻 第三帖)

『霊の要求ぢゃと申して、そのまま受け入れてはならんぞ、よく判断した上で処理せねばならん。下級霊、動物霊の場合は酔ひどれのように箸にも棒にもかからんことを申すものぞ。殊にその霊が病気に関連をもってゐる場合は微妙であるから、よく心得なされよ。悪い企て、悪い行為ぢゃとて、直ちにキメつけてはならん、やんわりともちかけて善きに導かねばならんぞ、悪をきらふ心があってはならん、悪抱き参らせと申してあろうがな。邪道的要求を容れて一時的に病気を治すと、それに倍してブリ返すぞ、この呼吸大切』(竜音の巻 第十七帖)

『たとへ神の言葉と申しても一応は考へよ。神の言葉でも裏表の見境なく唯に信じてはならん。サニワせよ。薬、毒となることあると申してあらうが。馬鹿正直、まことの道 見失ふことあると申してあらうが』(黄金の巻 第二十九帖)

霊懸かりや神懸かりや奇跡的に見えることを間に受けて鵜呑みにするのではなく、その裏にある思惑を疑ってみることも重要です。何事に対しても自分の頭でしっかりと考えて、見極めや判断をする必要があるのではないでしょうか。

『身も心も嬉し嬉しなるのがまことの神ぢゃ。ものの嬉しさだけではゼロぢゃ。たまの嬉しさだけでもゼロぢゃ。よく心得なされよ。死後のみ説く宗教はゼロの宗教ぢゃ。迷ふでないぞ。この世で天国に住めんもの、天国に行ける道理ないのぢゃと申してあらう。神は人間の命、人間は神の容れものであると申してあらう。人間の極まるところは神であるぞ。霊人は中間の存在ぞ。人間は神への土台ぞ。この道理判るであらうが』(黒鉄の巻 第二十一帖)

『死後の生活知らすことはよいなれど、それのみによって改心せよと迫るのは悪のやり方。奇跡を見せ、病気を直してやるのもよいのぢゃが、それのみによって改心を迫ってはならん。それのみで道を説いてはならんぞ。そんなこと位でマコトのホッコン(根本)の改心が出来るならば、人間は遠の昔に改心して御座るぞ。今迄のやうな宗教は亡びると申してあらうが。亡びる宗教に致して下さるなよ』(黒鉄の巻 第三十帖)※赤字は補足/解釈

『他の宗教に走ってはならんと云う宗教もそれだけのもの。判らんと申してもあまりであるぞ。同じ所に天国もあり、地獄もあり、霊界もあり、現実界もあり、過去も未来も中今にあるのぞ。同じ部屋に他の神や仏をまつってはならんと申す一方的なメクラ宗教にはメクラが集まるのぢゃ。病気が治ったり運がひらけたり、奇跡が起ったりするのみをおかげと思ってはならん』(月光の巻 第二十三帖)

死後に天国に行くために、今はただ苦しい思いだけをするのが正しいこととしたり、悪いことが起こっても、それを無理やりいいように捉えようとしたり、病気になったとしても、それが簡単に治ったとしたら、その人の成長には繋がりません。なぜそうなってしまったのか、原因は何だったのかを考えて改めない限り、また同じことを繰り返してしまいます。邪教の一番怖いところは、人から考える力や成長する力を奪ってしまうことです。

『地獄説く宗教は亡びるぞ。地獄と思ふもの、地獄つくって地獄に住むぞ。地獄はげしくなるぞ』(黄金の巻 第二十六帖)

『神に使はれるのは一通りや二通りの苦労では出来ん。宗教によるもののみ天国に行くと考へるもの、自分の教会のみ天国に通ずると思ふもの、皆 悪の眷族(けんぞく)ばかり。迷ふなよ。迷ふは慾からぢゃ。体験と理解のみ財産ぞ』(黄金の巻 第十六帖)※赤字は補足/解釈

自分達だけが天国に行って、他の人達は地獄に行くといった考え方は「自分さえ良ければいい(われよし)」から来ていると思います。そういった考え方の人達と、また他の同じような考え方の人達が対立することで、争いが生まれてしまいます。地獄を説いて「恐怖」で人を支配しようとする宗教は、間違った方向に向かってしまう可能性が高いのではないでしょうか。

『カミヒトと申すのは、神の弥栄(いやさか)のため、世の弥栄のため祈り、実践する人のことであるぞ。神のため祈れば神となり、世のため祈れば世と一体となるのぢゃ。自分のためばかりで祈れば迷信、われよしの下の下ぞ』(春の巻 第二帖)※赤字は補足/解釈

『われよしの小さいわれよしではならん。大きなわれよし結構ぞ。ぎせいになることを尊いことぢゃと申してゐるが、ぎせいに倒れてはならん。己を生かす為に他を殺すのもいかん。己殺して他をいかすのもいかん。大の虫を生かすため、小の虫を殺すことはやむを得んことぢゃと申したり、教へたりしてゐるが、それもならんぞ。総てを殺さずに皆が栄える道があるでないか』(月光の巻 第三十三帖)

「自分さえよければいい」の「小さいわれよし」ではなく、「自分も自分以外も、全てがよければいい」の「大きなわれよし」になることが重要なようです。

僕なりに解釈する「サニワ」の意味は
「他人や宗教の考え方や意見を鵜呑みにして考えるのを停止してしまうのではなく、一度取り入れて、自分の経験から得た考え方や別の視点の意見と闘わせることで見極めや判断をし、さらに新しい視点や確信を得ていくこと」です。


二つ目の岩戸開き「まつり」

神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ』(碧玉の巻 第十帖)

ここの解釈は難しいですが、天皇現人神として絶対的な存在としてしまったことで、天皇を中心とした階級を、一部の人間が自分勝手に作り上げてしまい、「自分より目上の人間」と「自分より目下の人間」がいるといった考え方が世の中の常識になってしまったのではないかと僕は解釈しました。そういった世の中になることで、間違った差別や蔑みが次第に生まれ、どんな人にも価値があって感謝すべき存在であることを、多くの人が忘れてしまったのではないでしょうか。

神示によく登場する「まつり」や「まつり合」といった言葉がここに当てはまるのではないかと、僕は考えます。

『まつりせよ、地(つち)にまつろへよ、天(あめ)にまつろへよ、人にまつろへよ、草木動物にまつろへよ、と、くどう知らしてあるのに未だ判らんのか、神拝む許りがまつりでないぞ』(雨の巻 第六帖)

『何事に向っても先づ感謝せよ。ありがたいと思へ。始はマネごとでもよいぞ。結構と思へ。幸と思へ。そこに神の力 加はるぞ。道は感謝からぞ』(春の巻 第三十六帖)

『宇宙の総てはこの神の現れであり、一面であるから、その何処つかんで拝んでもよいのである。その何処つかんで、すがってもよいのであるぞ。水の流れも宗教ぞと申してあらう。総てに神の息、通ふているぞ』(春の巻 第二十二帖)

日があって、水があって、土があるから食物が育つ。生産者がいて、卸売業者がいて、運送業者がいて、小売り業者がいるから食物が作られて、運ばれて、買うことが出来て、食べることが出来る。その一つ一つの流れの間にも想像出来ないくらい沢山の存在が関わっています。これはほんの一例ですが、世の中は目に見える働き、目に見えない働きが複雑に関わって廻っています。決して誰か一人の力で廻っている訳ではありません。何が目上で何が目下、何が偉くて何が偉くないではなく、それぞれが必要で、全てが感謝すべき存在だということではないでしょうか。

『何事も神にまかせて取越し苦労するなよ、我が無くてもならず、我があってもならず、今度の御用なかなか六ヶ敷いぞ』(下つ巻 第四帖)

『神にまかせきると申しても、それは自分で最善をつくして後のことぢゃ。努力なしにまかせるのは悪まかせぢゃ。悪おまかせ多いのう。魂の財産は金を得るより数倍六ヶ敷いぞ』(春の巻 第二十六帖)

『他力の中の自力ぢゃ。ぢゃと申して、まかせきったと申して、ふところ手ならん。自力大切ぢゃ。まつりは常住坐臥にあるぞ。拝むばかりではならん』(春の巻 第二十帖)

『仕事、嘉事(よごと)と申してあろがな、仕事マツリざぞ、自分の仕事おろそかならんのざぞ、仕事せよ、仕事仕へまつれと申してあろが』(青葉の巻 第五帖)

一人ひとりが世の中の一部で、歯車の一つです。自分のやるべきことを精一杯頑張ることも「まつり」の一つだと書かれています。それ以外の部分は、周りを信じて任せきることも重要なようです。

どんなに能力がある人でも、力の及ばないところ、手の回らないところはあります。その人がやるべきことに集中出来るのは、他の人が他の部分を担ってくれているからです。お金を稼いでいるか、そうでないかで見ると、優劣は付けやすいですが、本当に優れた人間かどうかというのは、また別の見方が必要なのではないでしょうか。

『まつりまつりと、くどく申して知らしてあるが、まつり合はしさへすれば、何もかも、うれしうれしと栄える仕組で、悪も善もないのぞ、まつれば悪も善ぞ、まつらねば善もないのぞ、この道理分りたか、祭典と申して神ばかり拝んでゐるやうでは何も分らんぞ。そんな我れよしでは神の臣民とは申せんぞ、早うまつりて呉れと申すこと、よくきき分けて呉れよ。われがわれがと思ふてゐるのは調和(まつり)てゐぬ証拠ぞ、鼻高となればポキンと折れると申してある道理よく分らうがな、この御道は鼻高と取りちがひが一番邪魔になるのぞと申すのは、慢心と取りちがひは調和(まつり)の邪魔になるからぞ。ここまでわけて申さばよく分かるであろう、何事も真通理(まつり)が第一ぞ』(富士の巻 第二十二帖)

『自分と云ふことが強くなるから発展ないのぢゃ。行き止まるのぢゃ。われよしとなるのぢゃ。調和が神の現れであるぞ。霊と調和せよ。肉体と調和せよ。人と調和せよ。食物、住居と調和せよ。世界と調和せよ。うれしうれしぞ。一生かかってもよいぞ。おそくないのぢゃ』(春の巻 第三十五帖)

『自分は自分一人でなく、タテにもヨコにも無限につながってゐるのであるから、その調和をはからねばならん。それが人間の使命の最も大切なことであるぞ』(冬の巻 第一帖)

僕なりに解釈する「まつり」の意味は
「互いの存在価値を認め合って、その働きに感謝し合い、苦悩や喜びを共有すること。また、力の及ばないところ、手の回らないところは周りを信じて任せながら、自分のやるべきことを精一杯頑張ること」です。


三つ目の岩戸開き「罪と積み」

『次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ』(碧玉の巻 第十帖)

神々が素盞鳴命に総ての罪を着せて追いやってしまったとあります。この物語を現実に当てはめて考えると、「法律上で罪を犯してしまった人達」と「自分の罪を罪と思わず過ごしている人達」との関係を連想します。

犯罪者の多くは、置かれた環境に大きく影響を受けて、罪を犯す心理状態にまで追いつめられてしまうのだと僕は考えています。共通の敵を作って皆でいじめたり、自分より劣った人を見下したり、価値観の違う人を排除しようとしたり、僕たちは自分が抱えているストレスを誰かにぶつけることで楽になろうとします。しかし、それをぶつけられた人は、またそのストレスを誰かにぶつけることで楽になろうとします。僕たちが犯した小さな罪は少しずつ大きくなっていき、最終的に特定の人達のところに辿り着きます。そういった人達は、そのストレスに耐えきれず、社会からはじき出されて、疎外感を抱きます。そして、自分がそうされてきたのと同様に、他人を顧みず、罪を犯してしまうのではないでしょうか。重大な犯罪の多くは、犯罪者本人やその家族だけが悪いのではなく、社会全体の価値観や考え方の歪みが現れたものではないかと思います。

『素盞鳴の大神様 罪穢れ祓ひて隠れて御座るのざぞ』(日月の巻 第三十七帖)

多くの人から生まれた罪穢れを背負い、刑務所に服役して罪を償う。犯罪者のその姿は、この物語で描かれる素盞鳴命の姿に重なる部分があるように感じます。

『今度は先づ心の建直しぢゃ、どうしたら建直るかと云ふこと、この神示読んで覚りて下されよ、今度は悪をのうにするのぢゃ、のうにするは善で抱き参らすことぢゃ、なくすることでないぞ、亡ぼすことでないぞ、このところが肝腎のところぢゃから、よく心にしめて居りて下されよ』(海の巻 第七帖)

『人民をほめること よいことぢゃ。ほめて、その非をさとらせよ。罪ゆるすことぢゃ』(春の巻 第八帖)

『お詑びすれば誰によらん、許してよき方に廻してやるぞ、口先ばかりでなく心からのお詑び結構いたしくれよ』(青葉の巻 第十四帖)

もちろん法律上で罪を犯してしまった人にも原因はあり、非はあります。人を傷つけたり、苦しめたり、悲しませた罪は、償うことで、はじめて許されると思います。

でも、彼らを裁くだけでは犯罪はなくなりません。

『人民 神とあがめよ、神となるぞ、泥棒と見るキ(心)が泥棒つくるのぢゃ』(光の巻 第三帖)※赤字は補足/解釈

『戦恐れてゐるが臣民の戦位、何が恐いのぞ、それより己の心に巣くうてる悪のみたまが恐いぞ』(富士の巻 第七帖)

他人を差別したり、蔑んだり、いじめたり、他人に苛立ちをぶつけたりすることで犯罪の小さな原因になっていないか。一人ひとりが省みて、改める必要があるのではないかと思います。

『罪を憎んでその人を憎まずとは悪のやり方、神のやり方はその罪をも憎まず』(黄金の巻 第五十三帖)

『神は喜びであるから、人の心から悪を取り除かねば神に通じないぞと教へてゐるが、それは段階の低い教であるぞ。大道でないぞ。理屈のつくり出した神であるぞ。大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせてゐるのであるぞ。抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが。今迄の教は今迄の教』(秋の巻 第一帖)

『【智の中に悪をとり入れるゆとりの出来んやうではマコト成就せんぞ。智の中には総てを取入れて理解出来るやうに】なってゐるのであるぞ。愛の中に悪入れてはならんぞ』(黒鉄の巻 第十七帖)

自分自身が悪い考え方や行いに染まってはいけないですが、悪いことをしてしまった人達の心情を知ろうとすることは大切だということではないでしょうか。

「人間のする事とは思えない」と言われるような事件の100%は人間のした事です。どんなに残忍な事件であったとしても、それをいつまでも「人間のする事とは思えない」で片付けてしまっては何の進歩もありません。

犯罪者は何故、犯罪者になるのか。罪を犯す可能性は、きっと誰にでもあります。育った環境が少しでも違えば、もしかしたら僕も重大な罪を犯していたかもしれません。犯罪者がどういった経緯で罪を犯してしまったのか。それを知ることで、自分自身や身近な人が罪を犯さないようにする為に、何をすべきで何をすべきでないのかが見えてくると思います。

補足記事:

以前に書いたものですが、こちらも参考になるかもしれません。もしよければ、読んでみて下さい。

2044.hatenablog.com
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四つ目の岩戸開き「それぞれの岩戸開き」

『次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にまします(いらっしゃる)のぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ』(碧玉の巻 第十帖)※赤字は補足/解釈

天照大神の岩戸隠れ」

誓約で身の潔白を証明した建速須佐之男命は、高天原に居座った。そして、田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らしたりの乱暴を働いた。他の神は天照大神に苦情をいうが、天照大神は「考えがあってのことなのだ」とスサノヲをかばった。しかし、天照大神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、建速須佐之男命が機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れたため、驚いた1人の天の服織女は梭(ひ)が陰部に刺さって死んでしまった。ここで天照大神は見畏みて、天岩戸に引き篭った。高天原葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。

Wikipediaより

勝手な解釈ではありますが、「見畏みて(恐れ多いと思って)」ということは、天照大神は怒りや恐怖が直接の原因で岩戸に閉じこもってしまったのではなく、信じていた人に裏切られたと感じたことで、自分自身の考えや判断が信じられなくなり、閉じこもってしまったのではないでしょうか。皆をまとめることが本当に出来るのか、自分はその立場に相応しい存在なのかが判らなくなり、現代でいうところの引きこもりのような状態になってしまったのではないかと考えました。

『だました岩戸からはだました神が出て、ウソの世となったのぢゃ、この道理判るであろう、ニセ神やら、だました神やら、次々に五度の岩戸閉めと申してあろが』(海の巻 第十一帖)

『ダマシタ岩戸からはダマシタ神お出でましぞ、と申してくどう知らしてあろがな、ダマシて無理に引張り出して無理するのが無理ぞと申すのぞ、無理はヤミとなるのざぞ、それでウソの世ヤミの世となって、続いてこの世の苦しみとなって来たのざぞ』(青葉の巻 第十四帖)

その後、神々が騙して、無理やりに天照大神を引っ張り出してしまったことも、闇の世となった原因と書かれています。

『光は中からぢゃ、岩戸は中からひらかれるのぢゃ』(紫金の巻 第八帖)

この物語から読み取れるのは、一人ひとりが自分自身の価値や役割を思い出すということではないかと思います。

『その人によってふさわしい行がある。誰でも同じでない。一合食べる人もあれば一升食べる人もあるぞ。身につかんもの、身につかん行は、いくらしても何もならん。いらん苦労はいらんと申してあろう』(春の巻 第五十帖)

「その人によってふさわしい行がある」という記述があります。他の岩戸(課題)は目指すところが共通なように感じますが、この岩戸は一人ひとり違ったものと解釈しています。

『岩戸開くと申しても、それぞれの岩戸あるぞ、大工は大工の岩戸、左官左官の岩戸と、それぞれの岩戸あるから、それぞれ身魂相当の岩戸開いて呉れよ』(下つ巻 第二帖)

この言葉は、ここに当てはまるのではないでしょうか。

「まつり」の内容と重なる部分もありますが、一人ひとりが世の中の歯車の一つで、必要な存在です。意味を持って生まれてきた存在だと自覚して、何をするべきかに気付いて、居るべき人が居るべきところに居ることで、世の中はさらに良くなっていくのではないかと思います。

『使命がいのち。上から、神から命ぜられたことがいのちぞ。使命はつくられた時に与えられる。使命なくてものは生れんぞ。自分の使命は内にききつつ外にきけよ。使命果たすがよろこびぞ。使命果たすには生命がけでなくてはならん。生命ぢゃからのう。努力した上にもせなならんぞ。努力には苦もあるぞ。苦のない努力ないぞ。右を動かせば左もうごくぞ。果たせば苦は楽。果たさねば楽も苦。重荷あるからこそ、苦あるからこそ、風にも倒れんのぢゃ。神が主であるぞ』(春の巻 第十八帖)

『弥栄と云ふことは歩み一歩づつ喜び増して行くことぞ。喜びの裏の苦に捉はれるから判らんことに苦しむのぢゃ。苦と楽 共に見てよと申してあらう。偶然の真理、早う悟れよ』(黄金の巻 第九十七帖)

目標を持って、何かを成し遂げようとするのは、恐怖や不安もあり、悩みや苦しみもあります。でも、それがあるからこそ、喜びは大きくなるのではないでしょうか。

『どんな草でも木でも その草木でなければならん御用あるぞ。だから生きているのぢゃ。そのはたらき御用忘れるから苦しむ。行き詰る。御用忘れるから亡びるのぢゃ。個人は個人の、一家一家の、国は国の御用がある。御用大切、御用結構。日本が変って世界となったのぢゃ。自分の為ばかりの祈りには、自分だけの神しか出て来ない。悪の祈りには悪の神。善の祈りには善の神。始めの間は中々判らんものぢゃ。神様のなされるマネから始めて下されよ』(春の巻 第十四帖)

『燈台もとへ来て、明るうなると思ひ違ひ、もとへ来てあかりとなれよ。光となれよ』(黄金の巻 第九帖)

身体や心の病気などで働けなかったり、生活に補助が必要な人もいます。現在の価値観からすれば、価値がない存在と見る人もいるかもしれませんが、そういった人達には周りの人の考え方や価値観に影響を与えるという存在価値があるのではないかと僕は思います。また、その人を支えて感謝されることで、周りの人も存在意義を得られている部分もあると思います。ちょっとクサい言い方ではありますが、天照大神が太陽の神様であるように、誰もが誰かの存在を照らす、太陽のような価値を持っているのではないでしょうか。

補足記事:

2044.hatenablog.com
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五つ目の岩戸開き「中行く道」

『岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな』(碧玉の巻 第十帖)

『ナギ、ナミ夫婦神は八分通り国土を生み育てられたが、火の神を生み給ひてナミの神は去りましたのであるぞ。物質偏重の世はやがて去るべき宿命にあるぞ、心得なされよ。ナミの神はやがて九と十の世界に住みつかれたのであるぞ。妻神に去られたナギの神は一人でモノを生むことの無理であることを知り給ひ、妻神を訪れ給ひ、相談されたのであるなれど、話が途中からコヂレて遂に別々に住み給ふ事となり、コトドを見立てられて千引の岩戸をしめ、両神の交流、歓喜、弥栄は中絶したのであるぞ』(至恩の巻 第八帖)

『千引岩をとざすに際して、ナミの神は夫神の治(し)らす国の人民を日に千人喰ひ殺すと申され、ナギの神は日に千五百の産屋(うぶや)を建てると申されたのであるぞ』(至恩の巻 第九帖)

伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)が離れ離れになってしまい、一方的になってしまったことと、仲違いしてしまったことが岩戸閉めの原因と書かれています。

『道は三つと申してあろう。三とは参であるぞ。3(スリー)でないぞと申してあろう。無限であるぞ。平面的に申せば右と左とだけでないぞ。その右の外に、又 左の外に道でなき道あるぞ。それを善の外道、悪の外道と申す。外道多いのう。中の中には中の道あるぞ』(春の巻 第三十九帖)

『この道は中行く道ぞ、左も右りも偏ってはならんぞ』(地つ巻 第四帖)

この物語からは、それぞれの対立関係にある三つ目の道、「中行く道」を見つける努力が必要だと読み取れます。

『左でもなく右でもなく、うれしうれしの道あるぞ』(月光の巻 第五十四帖)

『三が道ぞと知らしてあろう、自他の境界つくるでないぞ、おのづから自他の別と和が生れて お互に折り重なって栄へるのぢゃ、世界一家への歩み方、やり方、間違へるでないぞ』(極めの巻 第一帖)

『いくさは善にもあり、悪にもあり、右には右の、左には左の、上には上の、下には下の、中には中の、外には外のいくさあるぞ。新しき御代が到来しても いくさはなくならん。いくさも歩みぞ。弥栄ぞ。ぢゃと申して今のような外道のいくさでないぞ。人殺し、生命殺すようないくさは外道。やればやる程はげしくなるぞ。正道のいくさは人を生かすいくさ、やればやるほど進むのぢゃ。今の人民いくさと申せば、人の殺し合ひと早合点するが、それは外道のいくさ。天国へのいくさもあるぞ。幽界へのいくさもあるぞ。人民の云ふ今のいくさ、今の武器は、人殺す外道の道、それではならんのう。外道なくして下されよ。外道はないのであるから、外道 抱き参らせて、正道に引き入れて下されよ。新しき霊界は神人(カミヒト)共でつくり出されるのざ。それは大いなる喜びであるからぞ。神のみ旨であるからぞ。新しき世はあけてゐるぞ。夜明ければヤミはなくなるぞ。新しきカタはこの中からぞ。日本からぞ。日本よくならねば世界はよくならん。外道の武器すてよ。外道の武器生かして、活かして、いのちを生かす弥栄の武器とせよ。かへられるでないか』(春の巻 第四十二帖)

宗教と宗教、国家と国家、企業と企業、地域と地域、個人と個人、自分と自分、無数にある関係の中に対立があります。自分のいる立場からすれば、相反する考え方や価値観を持つ存在は邪魔だと感じます。一方を善とすれば、もう一方は悪です。相容れない存在として排除しようとすれば、神示でいうところの「外道のいくさ」が始まります。戦争はおそらく、その極みです。

『気の合う者のみの和は和ではない。色とりどりの組合せ、ねり合せこそ花さくぞ。総てが神の子ぢゃ。大神の中で弥栄ぞ。大き心、広き心、長い心 結構。中々に合わんと申すなれど、一つ家族でないか。心得なされよ。夫婦けんかするでない。夫のみいかんのでない。妻のみ悪いのでないぞ。お互に己の姿を出し合ってゐるのぞ』(月光の巻 第九帖)

『愛は養はねばならん。夫婦はいのちがけで、お互にきづき合はねばならんぞ。夫婦愛はあるのではない。築き上げねばならんぞ。生み出すのぢゃ。つくり出すのぢゃ。そこに尊さあるぞ。喜びあるぞ』(春の巻 第二十六帖)

自分とは違った立場の考え方や価値観や意見があるからこそ気付きがあり、新しい発見があり、そこにもまた成長があります。より多くを自分の中に取り入れることで、感じ取れる世界や受け容れる器が広がっていくのではないでしょうか。

夫婦関係やスポーツや学問のように、気付き合い、競い合い、切磋琢磨し合うことで互いに成長していけるようなものを「正道のいくさ」と言うのではないかと思います。

『人間を幸福にするのは心の向け方一つであるぞ。人間はいつも善と悪との中にゐるのであるから、善のみと云ふこともなく悪のみと云ふこともない。内が神に居りて外が人に和し、内が霊に居り外が体に和せば、それでよいのぢゃ。其処に喜び生れるのぢゃ。神から出た教なら、他の教とも協力して共に進まねばならん。教派や教義に囚はれるは邪の教。豚に真珠となるなよ。天国の意志は人間の喜びの中に入り、幽界の意志は悲しみの中に入る』(黒鉄の巻 第十五帖)

『禁慾は神の御旨でないぞ。慾を浄化して、生めよ。産めよ。今の人民、慾の聖化を忘れて御座るぞ。慾は無限に拡がり、次々に新しきもの生み出すぞ。慾を導けよ。自分だけならば五尺の身体、五十年の生命であるが、霊を知り、宇宙の意志を知り、神にとけ入ったならば、無限大の身体、無限の生命となるぞ。マコトの嬉し嬉しのよろこびとなるのであるぞ』(黒鉄の巻 第三十四帖)

『そなたの心の中にゐる獣(ケダモノ)、言向けねばならん。善きに導かねばならん。一生かかってもよいぞ。それが天国に行く鍵であるぞ。マコトの改心であるぞ。智慧と、愛が主の座に居らねばならん』(黄金の巻 第八十六帖)

贅沢をしたいという気持ちや、誰かに勝ちたいといった気持ちは、ほとんどの人が持っていると思います。そういった欲があるからこそ、苦悩や喜びがあり、成長や成功や創造があります。それが個人の中の「悪」の役目です。でも、間違った方向にいってしまうと、他人を騙してでもお金を得ようとしたり、他人を蹴落としてでも成功を掴もうとしてしまいます。前者は「正道の悪」で、後者は「外道の悪」だと僕は解釈しています。

また、逆にそういった欲を全て必要のないものとして、完全に排除しようとするのが「外道の善」で、自分の欲や悪いことを望んでしまうところを認めて、それをうまく諭しながら「悪」が道を外さないように導くのが、個人の中の 「善」の役目、「正道の善」なのではないかと思います。

『善と悪と取違ひ申してあらうがな、悪も善もないと申してあらうがな、和すが善ざぞ、乱すが悪ざぞ、働くには乱すこともあるぞ、働かねば育てては行けんなり』(青葉の巻 第十一帖)

『調和乱すが悪ぞ。人間のみならず、総て偏してならん。霊に偏してもならん。霊も五、体も五と申してあらう。ぢゃが主は霊であり体は従ぞ。神は主であり、人間は従であるぞ。五と五と同じであると申してあろう。差別則平等と申してあらう。取り違い禁物ぞ』(冬の巻 第一帖)

『和合した姿を善と申すのぢゃ。今迄の宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、肉体をおろそかにしてゐたが、それが間違ひであること合点か。一切がよいのぢゃと云ふこと合点か。地獄ないこと合点か。悪抱き参らせよと申してあること、これで合点か。合点ぢゃナア』(白銀の巻 第一帖)

対立はどこにでも、どんな関係にもあります。その中で互いが納得出来る道や互いに成長出来る道を探す努力が必要だということではないでしょうか。

補足記事:

2044.hatenablog.com
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『ひふみ神示』を読んで、結構ビックリしたので紹介します - ひふみ神示 解釈1

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※この記事は2015.12.18に個人ブログ(nakamuramakoto.net)へ投稿したものを、再編集して投稿しています。

最近、「ひふみ神示」を初めて読みました。人間や社会のあり方のこと、三千世界の仕組みや予言的なこと、日本の役割など、結構ビックリする内容が書いてあったので、もう既に知っている方も多いと思いますが、紹介したいと思います。NAVERまとめ(サイト内の筆者の写真は多分間違えてる)やWikipediaに時代背景なども含めた大まかな情報(正確かどうかは分からない)が載っています、そちらもご覧ください。ただ書かれていることは解釈の範囲なので、鵜呑みにはしない方がいいです。このブログもまた、鵜呑みにはしないでください。

全文は「ひふみ神示データー」というサイトに載っています。ひふみ神示の本文を引用する場合、ほぼ全てこのサイトから引用させて頂いています。


1.どういった内容か

ひふみ神示」は岡本天明という方が第二次世界大戦末期に自動書記で書いたとされる書物です。「国之常立神」と呼ばれる神様によるもののようです。ひふみ神示は解読(訳)されたもので、原文は「日月神示」といって漢数字や仮名や記号で書かれています。その原文は霊界といわれる、僕たちの目には見えない世界の存在に向けても書かれているそうです。

『この神示は、神と竜神と天人天使と人民たちに与へてあるのぢゃ』(極めの巻 第十八帖より)

訳されたひふみ神示ですら、書かれている内容は難しく、理解できない部分も多いのですが、僕自身が読み取れる範囲での大まかな内容は以下の通りです。

書かれた時代から現在までの予言的なこと

『おろしや(ロシア)にあがりておりた極悪の悪神、愈々神の国に攻め寄せて来るぞ。北に気つけと、北が愈々のキリギリざと申して執念(くどう)気つけてありた事近ふなりたぞ。神に縁深い者には、深いだけに見せしめあるのざぞ。国々もその通りざぞ、神には依怙(えこ)無いのざぞ。ろしあ(ロシア)の悪神の御活動と申すものは神々様にもこれは到底かなはんと思ふ様に激しき御力ぞ』(日の出の巻 第七帖)※赤字は補足/解釈

wikipediaの情報によれば、この「日の出の巻」が書かれたのが昭和19(1944)年12月1日~12月29日です。その時点で終戦間際にロシア(ソ連)が攻めてくることが当然のように書かれています。「でしょう」や「だろう」ではなく。「こうなるから気を付けなさいよ」っていう感じで書かれているのが凄いです。

『日本の国は一度つぶれた様になるのざぞ。一度は神も仏もないものと皆が思う世が来るのぞ』(上つ巻 第九帖)

『東京は元の土に一時はかへるぞ、その積りで用意して呉れよ』(上つ巻 第十一帖)

「上つ巻」が書かれたのは昭和19(1944)年6月10日~7月9日です。その時点で、日本の敗戦や東京大空襲を思わせるような記述もあります。「神も仏もないものと皆が思う世が来る」それも当たっています。

『金で世を治めて、金で潰して、地固めして みろくの世と致すのぢゃ』(黄金の巻 第五十九帖)

その後の高度経済成長とバブル景気の崩壊も予見されています。これが本当に戦時中や戦後すぐに書かれたものだとしたら、相当凄いと思います。

未来に関する予言や終末論、その後に訪れる新世界論的なこと

『辛酉(かのととり)はよき日、よき年ぞ。冬に桜咲いたら気つけて呉れよ』(下つ巻 第三十帖)

『子(ネ)の歳真中にして前後十年が正念場、世の立替へは水と火とざぞ』(磐戸の巻 第十六帖)

『早うこの神示読んで洗濯して呉れよ、どんな大峠でも楽に越せるのざぞ』(磐戸の巻 第十七帖)

正念場というのが過去のことなのか未来のことなのかは分かりませんが、次の子の年は2020年です。

『日本のてんし様が世界まるめてしろしめす世と致して、天地神々様にお目にかけるぞ』(下つ巻 第二十帖)

日本のてんし様(救世主?)が世界をまるめる(一つにまとめる?)という記述もあります。

『一時は天も地も一つにまぜまぜにするのざから、人一人も生きては居れんのざぞ、それが済んでから、身魂みがけた臣民ばかり、神が拾ひ上げて弥勒(みろく)の世の臣民とするのぞ、どこへ逃げても逃げ所ないと申してあろがな、高い所から水流れるやうに時に従ひて居れよ、いざといふときには神が知らして一時は天界へ釣り上げる臣民もあるのざぞ』(富士の巻 第十九帖)

『心からお詫びして改心すれば、この先末代身魂をかまうぞ、借銭負うてゐる身魂はこの世にはおいて貰へん事に規則定まったのざぞ、早う皆に知らしてやれよ。タテコワシ、タテナホシ、一度になるぞ、建直しの世直し早うなるも知れんぞ、遅れるでないぞ。建直し急ぐぞ、建直しとは元の世に、神の世に返す事ざぞ』(キの巻 第八帖)

『今の文明なくせんと申してあろうが、文明残してカスだけ無(のう)にいたすのぢゃ、取違ひ慢心致すなよ。日本の国いくら大切と申しても、世界中の臣民とはかへられんから、くにひっくりかへること、まだまだあるかも知れんぞ、くにの軸 動くと知らしてあろがな』(風の巻 第五帖)

『マコトでもって洗濯すれば霊化される、半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物の肉体とならねばならん、今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ、灰になる肉体であってはならん、原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、今の物質でつくった何物にも影響されない新しき生命が生れつつあるのぞ。岩戸ひらきとはこのことであるぞ、少し位は人民つらいであろうなれど勇んでやりて下されよ、大弥栄の仕組』(五葉の巻 第十六帖)

『今迄の様な大便小便 無くなるぞ。不潔と云ふもの無き世となるのざぞ。不潔物 無くなるのぞ。新しき神の世となるのざから、神々にも見当取れん光の世となるのざぞ』(夜明けの巻 第六帖)

「タテコワシ、タテナホシ?」 「人一人も生きては居れん?」「半霊半物の肉体?」ものすごいことが書いてある。今までのような「ウンチ」も無くなっちゃうらしい。「みろくの世」ってなんだろうか?

「建壊し、建直し」や「大峠」といわれる大災害を連想させるような記述も所々にあり、不安になる部分もあります。ですが「みろくの世」と呼ばれる、これからくる新世界の様子に関しては妄想し甲斐があって、個人的には一番面白い部分です。そして、世界が一つになるといった内容も興味深いです。

三千世界といわれる世界の仕組みのこと

『三千の世界の中の一つがそなた達の世界であるぞ。この世も亦(また)三千に分れ、更に五千に分れてゐるぞ』(白銀の巻 第一帖)※赤字は補足/解釈

『○(霊)界と申しても神界と幽界に大別され、又神界は天国と霊国に分けられ、天国には天人、霊国には天使が住み、幽界は陽界と陰界に分れ、陽霊人、陰霊人とが居る、陽霊人とは人民の中の悪人の如く、陰霊人とは善人の如き性をもってゐるぞ。高い段階から申せば善も悪も、神界も幽界もないのであるが、人民の頭で判るように申してゐるのであるぞ。幽界は本来は無いものであるが、人民の地獄的想念が生み出したものであるぞ』(竜音の巻 第四帖)

『天人に結婚もあれば仕事もあるぞ。死も亦あるのであるぞ。死とは住む段階の違ふ場合に起る現象ぞ』(白銀の巻 第六帖)

『天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している。その霊人たちは、その属する段階以外の世界とは、内的交流はあっても、全面的交流はないのである。何故ならば、自らなる段階的秩序を破るからである。秩序、法則は、神そのものであるから、神自身もこれを破ることは許されない。しかし、同一線上に於ける横の交流は、可能である』(ジシンの巻 第二帖)

三千世界の仕組みに関しては特に「ジシンの巻」と「白銀の巻」が参考になります。かなり想像力が鍛えられるので、こういうものを信じていなくても読む価値はあると思います。「ドラゴンボール」や「幽遊白書」、最近亡くなられた水木しげるさんの「ゲゲゲの鬼太郎」など、売れている漫画やアニメの作者は結構こういうものを参考にしているのではないかと思います。予言の部分に関しては「新世紀エヴァンゲリオン」もなにか関係がありそうです。

僕たちが乗り越えるべき課題、人間や社会のあり方のこと

『愛は養はねばならん。夫婦はいのちがけで、お互にきづき合はねばならんぞ。夫婦愛はあるのではない。築き上げねばならんぞ。生み出すのぢゃ。つくり出すのぢゃ。そこに尊さあるぞ。喜びあるぞ。左には宗教、右には芸術』(春の巻 第二十六帖)

『どんな草でも木でも その草木でなければならん御用あるぞ。だから生きているのぢゃ。そのはたらき御用忘れるから苦しむ。行き詰る。御用忘れるから亡びるのぢゃ。個人は個人の、一家一家の、国は国の御用がある。御用大切、御用結構。日本が変って世界となったのぢゃ。自分の為ばかりの祈りには、自分だけの神しか出て来ない。悪の祈りには悪の神。善の祈りには善の神。始めの間は中々判らんものぢゃ。神様のなされるマネから始めて下されよ』(春の巻 第十四帖)

『ぎせいになることを尊いことぢゃと申してゐるが、ぎせいに倒れてはならん。己を生かす為に他を殺すのもいかん。己殺して他をいかすのもいかん』(月光の巻 第三十三帖)

『与へよ、与へよ、与へよ、与へる政治と申してあろうが。戦争か平和かと人民申してゐるなれど、道はその二つでないぞ、三が道と、くどう申してあろう。水の外道の武器と火の外道の武器の他に、新しき武器気づかんのか。神示よく読めば示してあるのであるぞ。ほかに道ないと きめてかかるから判らんのざ。生れ赤児になれば判るぞ。知らしてやりたいなれど、知らして判るのでは自分のものとならん。自分が体得し、自分から湧き出ねば自分のものでないぞ。つけ焼刃は危ない、危ない。気狂ひに刃物ぞ。平面的考え、平面生活から立体に入れと申してあろうがな。神人共にとけ合ふことぞ。外道でない善と悪ととけ合ふのぞ。善のみで善ならず。悪のみで悪ならず。外道は夜明けくれば消えて了ふぞ。夜明けの御用大切と申してあろうが。外道の悪 殺すでないぞ。抱き参らすから消えるのであるぞ』(春の巻 第四十三帖)

個人や夫婦のあり方、政治や経済のあり方、善悪についても言及されています。

『戦や天災では改心出来ん。三千世界の建直しであるから、誰によらん。下の神々様もアフンの仕組で、見事成就さすのであるが、よく神示読めば、心でよめば、仕組九分通りは判るのであるぞ。死ぬ時の想念がそのままつづくのであるから、その想念のままの世界に住むのであるぞ。この世を天国として暮す人 天国へ行くぞ。地獄の想念、地獄生むぞ』(黄金の巻 第七十五帖)

『木でも草でも皆、中から大きくなるのざと申してあろう、つけ焼刃や膏薬はりで大きくなるのでないぞ、三千年に一度と言ふ、又とない結構な時がめぐりて来てゐるのであるぞ、為せば成るぞ、六ヶ敷いこと申してゐるのではない、自分の中の自分を掃除して自分の外の自分を洗濯して磨けと申しているのぞ、みがけば神と同列のミタマぞ、釈迦ぞ、キリストぞと申してあろう。内にあるものを磨けば外からひびくものも磨かれた、けがれのないものとなるのぢゃ、中の自分を掃除しないで居るといつ迄たっても、岩戸がひらけてゐても(個人の)岩戸はひらけん』(扶桑の巻 第十三帖)※赤字は補足/解釈

『この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくあるなれど、それは大難を小難にし、又めぐりが一時に出て来て、その借銭済しをさせられてゐるのぢゃ。借りたものは返さねばならん道理ぢゃ。損もよい、病気もよいぞと申してあろうが。此処の道理もわきまへず理屈申してゐるが、そんな人民の機嫌とりする暇はなくなったから、早う神心になって下されよ。そなたは祈りが足らんぞ。祈りと申すのは心でゐのり願ふことでないそ。実行せねばならん。地上人は物としての行動をしなければならんぞ。口と心と行と三つ揃はねばと申してあること、忘れたか』(月光の巻 第四十四帖)

「改心」や「洗濯」という言葉がよく出てきます。そして、「岩戸開き」が重要な要素のひとつだと思われます。

この乗り越えるべき課題やあり方についてが、神示に書かれている内容の中で一番重要で身近な部分だと僕は思います。厳しい言葉もたくさんありますが、悩みを抱えている人は解決のヒントになる言葉も見つかるかもしれません。特に「春の巻」と「月光の巻」が参考になります。


2.「ひふみ神示」を読むときの注意点

ひふみ神示を読んでいると、価値観が揺さぶられることもあるので、少し気を付けながら読んだ方がいいかもしれません。特に重要だと思う注意点は3つです。

注意点1「見境なく信じない」

僕自身、こういうものは疑いながらも信じやすいタイプです。色々と悩み過ぎて、とうとう頭がおかしくなってしまったという可能性もあるかもしれません。でも、神示の中にはこんな言葉もあります。

『心して怪しと思ふことは、たとへ神の言葉と申しても一応は考へよ。神の言葉でも裏表の見境なく唯に信じてはならん。サニワ(判断、見極め)せよ。薬、毒となることあると申してあらうが。馬鹿正直、まことの道 見失ふことあると申してあらうが』(黄金の巻 第二十九帖)※赤字は補足/解釈

すがるように信じたり、盲信するのではなく、自分自身の経験と照らし合わせたり、他人の否定的な意見も一旦は受け入れてみて、自分の頭でしっかりと考えた上で信じるべきだということだと思います。

注意点2「悪いことを期待しない」

『悪いこと待つは悪魔ぞ、何時 建替、大峠が来るかと待つ心は悪魔に使はれてゐるのざぞ』(キの巻 第九帖)

『富士は何時爆発するのざ、何処へ逃げたら助かるのぞと云ふ心 我れよしぞ。何処に居ても救ふ者は救ふと申してあろが。悪き待つキは悪魔のキざぞ』(水の巻 第十一帖)

「みろくの世」と呼ばれる新しい世界への移行や、それに伴う大災害は、もしかしたら本当にいつか起こるかもしれません。でも、それが起こるから何もしなくていいのではなくて、起こるかもしれないし、起こらないかもしれないという気持ちで、今をしっかりと生きていくべきなんだと思います。と、言っている自分が一番怪しいですが…。僕も頑張ります。

注意点3「偉そうにしない」

また、ひふみ神示を読んでいると日本は「真中の国」「神の国」「世界の雛形」など、日本人として嬉しい言葉が結構出てくるので、「日本人は特別なんだ」という気持ちになるかと思います。でも、おそらくそれは偉そうにしていいという意味ではないです。

『鼻高となればポキンと折れると申してある道理よく分らうがな、この御道は鼻高と取りちがひが一番邪魔になるのぞと申すのは、慢心と取りちがひは調和(まつり)の邪魔になるからぞ』(富士の巻 第二十二帖)

以上、注意点3つでした。僕も気を付けます。


3.「ひふみ神示」をあらかた信じる理由

予言や三千世界や神々のことなどは、今の常識からするとかなりビックリする内容なので、ここに書かれていることが本当のことなのか、信じきれない部分もあります。でも個人のあり方など、その他の部分を含めて考えると、鼻で笑って一蹴できるものでもないように感じます。人それぞれではありますが、個人的には疑いながらもあらかた信じたいと思います。なんとなく信じられる理由としては以下の通りです。

筆者が自身を否定している

天明は神示書かす役ぞ。神の心取り次ぐ役ざが、慢心すると誰かれの別なく、代へ身魂使ふぞ』(下つ巻 第十七帖)

天明は神示書かす役ぞ。アホになれと申してあろが、まだまだぞ』(夜明けの巻 第十三帖)

もし、この言葉が筆者自身の意思で書かれたのだとしたら、そうとうなやり手だと思います。こういうものは普通、始めた本人が一番偉そうにするのがお決まりのパターンです。

ただ、岡本天明さんが戦争を心から反対していて、戦争を早く終結させる為と自分が罰せられない為に、こういった形になったという可能性も考えられます。否定しようと思えばいくらでも否定できますが、僕としては自動書記でないと辻褄が合わないことが多いような気がします。

厳しくもやさしい、親心のような感じで諭してくれる

『人民は喜びの子と申してあろう。罪の子でないぞ。うれしうれしの道あるに、何故 歩まんのぢゃ』(春の巻 第五帖)

『何事に向っても先づ感謝せよ。ありがたいと思へ。始はマネごとでもよいぞ。結構と思へ。幸と思へ。そこに神の力 加はるぞ。道は感謝からぞ』(春の巻 第三十六帖)

『現状を足場として進まねばならん。現在のそなたのおかれてゐた環境は、そなたがつくり上げたものでないか。山の彼方に理想郷があるのではないぞ。そなたはそなたの足場から出発せねばならん。もしそれが地獄に見えようとも、現在に於てはそれが出発点。それより他に道はないぞ』(月光の巻 第二十六帖)

『早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。さびしさは人のみかは、神は幾万倍ぞ、さびしさ越へて時を待つ』(上つ巻 第一帖)

神様が実際にこんな口調で、こんなことを考えてくれてたら嬉しいと感じました。これは人によって感じ方が違うのかもしれないですが、僕としてはなんか安心します。考えてきたことを肯定してくれるような部分もあったので、信じられる理由というより、信じたい理由かもしれません。「うれしうれし」という言葉が結構気に入っています。「めくら」「つんぼ」「気狂い」など現代の差別用語も少々ありますが、そこは愛嬌ということで…。めくら、つんぼは障害のある方に対してというより、多くの場合は「分からず屋」という意味で使われています。


4.自分にも何かできることはあるかもしれない

ひふみ神示には「みろくの世」と呼ばれる理想的な新しい世界への移行と、その世界に移行するための「岩戸開き」という試練のような課題のようなものが出てきます。そして、この「岩戸開き」には日本や世界全体のそれと、個人々々のそれがあるように読み取れます。一人ひとりにも、それぞれの努力が必要なようです。自惚れかもしれないですし、正しいかどうかは分からないですが、その「一人ひとりの努力」の部分に関しては、自分にも何か手助けできることはあるかもしれないと思っています。

神示にはこんな記述もあります。

『此の神示は世(世間、社会)に出てゐる人では解けん。苦労に苦労したおちぶれた人で、苦労に負けぬ人で気狂いと云はれ、阿呆と謂はれても、神の道 素直に聞く臣民でないと解けんぞ。解いてよく噛み砕いて世に出てゐる人に知らしてやりて下されよ。苦労喜ぶ心より楽喜ぶ心高いぞ』(日月の巻 第三十六帖)※赤字は補足/解釈

約10年間、生きるか生きないかの狭間で、多くの人に迷惑を掛けながら悩んできた僕だから見えてくる部分も、もしかしたらあるのかもしれません。「苦労喜ぶ心より楽喜ぶ心高いぞ」という言葉は、色々な捉え方があると思います。僕は、自分が経験した苦しみと同じ苦しみを経験している人を見て喜ぶ心より、その人が楽に歩めるように手助けして、乗り越えられたときにはそれを一緒に喜べる心の方が高い、という意味で捉えました。ここに書かれている事が、もし本当に起こることだとしたら、自分が必死で考えてきたこと、悩んできたことが誰かや何かの役に立つかもしれません。なので、この「ひふみ神示」を読んで考えたこと、自分なりの解釈をブログに投稿していこうと思います。

慢心、取り違いで邪魔にはならないように気を付けます。

愛情を持つときに大切な3つの考え方

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※この記事は2014.12.24に個人ブログ(nakamuramakoto.net)へ投稿したものを、再編集して投稿しています。

今回は「愛情」というものについて、現時点での僕の考え方をまとめました。「人間が人間に対して持つ愛情」という範囲内での考え方です。小っ恥ずかしく書いていきます。

1.人間が持てる最大限の愛情は悩み続けること

「愛は心の片隅に置くところから始まって、愛情は幸せを願うところから始まる」と思います。

優しくすること、思いやること、大切にすること、信頼すること、褒めること、間違っていたらちゃんと叱ること。愛情を持った行動といわれるものは数多くあります。でも、人間である以上、その愛情が正しいかどうか本当の意味で分かっている人はいないと思います。なので、誰かに対する愛情を持つ時に一番大切なのは、正しい愛情を提供出来るかどうかではなく、その人についてどれだけ深く悩めるかどうかなのではないでしょうか。その人がその時に必要としているものは何か、与えられるものは何か、逆に与えるべきでないものは何か。その悩みは時には苦しいこともあって、やめたくなることもあります。だから休み休みでもいいと思います。それでも、その悩みを持ち続けるということが最大限の愛情を持ち続けるということだと僕は考えます。そして、その悩みが目指す方向は、やっぱり「幸せ」なのではないでしょうか。

2.自分自身に対する愛情を持たない人は自分以外の人への愛情も持つことが出来ない

周りの人には幸せになって欲しいと願っていながら、苦しみから逃げて楽になろうとしている自分がいました。その矛盾に気が付いた時から、僕はこう思い始めました。自分自身に対する愛情を持たない人は自分以外の人への愛情も持つことが出来ない。言い換えると、自分自身の幸せを願えない人は自分以外の人の幸せも願えない。僕はそう思っています。自分に先ず、自分自身の幸せを作り上げる力や感じ取る力が無ければ、周りの人にそれを与えることは出来ません。それに、もし自分の幸せを諦めてしまえば、その人の幸せを願う周りの人も心の底から幸せになることはないと気が付きました。

あと、自分以外の誰かへの愛情を持つのは、結局は自分の為なんじゃないかとも思います。自分にとって一番心地の良い居場所を知っているのは自分自身だけです。そして、その居場所を作り上げられるのも自分自身だけです。でも、その居場所を作り上げる為に必要不可欠なものが、多くの場合は自分以外の誰かの幸せなんだと思います。幸せにしてあげる為でも、もらう為でもなく、自分自身の幸せを作り上げる為に、幸せを願う自分以外の誰かは存在するのだと僕は思います。そして、そこにあるべき感情は、幸せにしてあげているという思い上がりなどではなく、幸せを願わせてもらっていることへの感謝だと思います。

3.人と人との間の中で愛情は成長していく

とはいえ、イラつくことだって、憎みたくなることだって、恨みたくなることだってあります。幸せを願うべき相手に対しても、自分自身に対しても、それ以外の人に対しても…。思い通りにならなくて、人のせいにして、突き放して、そうしてしまう自分をまた嫌ったりして…。でも、それでいいんだと思います。その距離があるからこそ、僕等はそれを埋めようと悩むことが出来て、愛情はまた成長していくんだと思います。

きっと、人と人とがどれだけ分かり合おうとしても、少しだけ残ってしまうむなしさの正体は、愛情が成長し続ける為に必要な余白のようなものなのかもしれません。

おわりに

やっぱり「愛情」のことについて書くのは難しかったです。説明不足なところもあるので、解りにくかったりもすると思います。すみません。でも、今のところの考え方はこんな感じです。また気が付いたことがあったら書いていきます。「なぜ生きる」と同様に、これについても人それぞれの考え方や正しさがあると思うので、それを見つける為の材料にして頂けたら幸いです。

なぜ生きる

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※この記事は2014.9.17に個人ブログ(nakamuramakoto.net)へ投稿したものを、再編集して投稿しています。

苦しめてきた悩み

高校卒業と同時期に悩み始めました。原因は色々あったと思います。親の離婚であったり、夢と呼べるものが無かったとか、世界中で起こっている戦争にも影響を受けたし、貧困問題だったり、環境問題だったり、そこからくる未来への不安だったり、この記事と同じタイトルのある本を読んでしまったことだったり。はっきり「これ」と言える原因は分かりませんが、その時期、僕はある疑問に飲み込まれました。

『なぜ生きる』

もう少し細かくすると、「何で生きなくちゃいけないんだろう、出来れば生きていきたくない」という感情でした。それは抜け出そうとしても、また引き込まれてしまう、蟻地獄のようなものでした。

生きる意味を悩み始めて約8年間、僕は色々なことについて考えて、悩んできました。それを紹介しようと思いますが、うまく整理することが難しいので、断片的なものを箇条書きで書いていきます。

・欲しいものはたくさんあるけど、全部は手に入らないし、手に入れたとしてもどうせまた次のものが欲しくなって切りがなくなるんだろうから、もうこれ以上は別に何もいらないかな。

・今まで結構幸せだったし、もうこれ以上は求めなくてもいいかな。

・片一方では嫌になるほど物が溢れていて、片一方では生きていけないほど物が無くて餓死する人までいる。その状況を改善しようとする人達もたくさんいて、きっと少しずつ改善していっている。でも、このまま改善していったらどうなるんだろう?人口が爆発して資源不足、水不足、食糧難。僕らは冷静でいられるのかな。医療技術が発達して寿命が延びていけば、もっとそれが加速する。もう考えるのも面倒くさい。全部あきらめてしまいたいな。

・働くのが面倒くさい。

・ニキビで悩むのが面倒くさい。

・子供を持てば、その子が暮らす未来に責任を持って生きていくことが出来るのかな。きっと僕には無理だろうな。

・どんなに頑張って生きていったとしても、きっとどこかにむなしさは残っていて、心の底から本当に幸せになることは無いと思う。

・人前が緊張するから、そういう場面が面倒くさい。自分の結婚式だってきっとそうだし、親の葬式だってきっとそうだろうな。薄情だな。そんな場面がくる前にやめてしまいたい。親の介護も面倒くさい。

・やりたい事はあるけど、特にはない。

・恋愛して結婚して幸せな家庭を持って。そんな願望もあるけど、自分の親も離婚してるし、世の中の大半の既婚者が言うように、誰かを好きになって結婚しても、その後には色んな問題が待っていて、いがみ合ったり、別れたりする。そんなところに夢を描いてもしょうがないかな。

・生きていくことに決心出来ないでいるから、誰かと深く関わることが恐い。恋人だって欲しいけど、悲しませることになるかもしれない。

・「僕らの置かれたこの状況が、もしマラソンみたいなもので、誰かが一番になって、誰かがビリになるものであるなら…。僕は一番後ろから見守るようについて行って、脱落しそうな人がいたら手を差し伸べて、ビリになる人がいないように最後にゴールしよう」そんな、ちょっとカッコつけた言い訳を逃避の理由に使ってみたいな。

・本当の意味で幸せになることはきっと無いのに、他の命を犠牲にしながら生きていく価値はあるのかな。

・あと何回、「やっぱり生きよう」と心の中で繰り返せば、最後まで生きられるんだろう。もう疲れたよ。

・戦争が無くなることはあるのかな。

・人間なんか地球上の他の生物からしたら、只々迷惑な存在なんだろうな。

・僕なんかが居ても世の中が変わることはないんだろうな。むしろ、いない方が人間一人分の環境汚染が防げるかな。

・虫が嫌いだけど、虫を殺す自分も嫌い。

・進歩していくっていうことは、きっと何かを手に入れる代わりに何かを失っていくっていうことなんだろうな。なんとなくその繰り返しが目に見えてる。目指すべきものってなんだろうか。なんだかむなしくなる。

・みんな辛いことも我慢して頑張っているのにな。それを踏みにじるような、馬鹿にするような考え方になってしまう自分が嫌い。消えてしまいたい。魂があるならそれも消してくれるように神様にお願いしてみよう。そうすれば、元々存在していなかったことに出来るかもしれない。そうすれば、みんなの記憶からも消えることが出来るかもしれない。

細かい悩みは他にもたくさんありましたが、僕自身の悩みの大部分はこんな感じのものでした。

これだけを読むと、ただの超マイナス思考なだけの人間に感じると思います。でも、まだ僕が生きているということは、それ以上のプラス思考を持っているということかもしれません。自分自身を納得させるための、僕なりの答えを必死で考えてきました。こんな人間が、どんな言い訳でまだ生きていこうとしているのか…。それについて書いていきます。

一つ目の生きる目的

何かを達成することは素晴らしいです。でも、その素晴らしさは多くの犠牲の上に成り立っています。例えば「立派な家に住む」という夢を持っていたとします。頑張ってお金を稼ぎ、住みやすい土地を探し、理想の間取りを決めて、家を建てる。それを実現すれば達成感もあり、きっと素晴らしい感情になると思います。でも少し見方を変えてみると、どうでしょうか?もしかしたら、家の材料になった木を住処にしていた生物もいるかもしれません。あるいは、建てた土地に住んでいた生物もいるかもしれません。

人間が追い求める素晴らしさと、それに伴う犠牲は、表裏一体であるから難しい。これは生きる上で避けることの出来ない「むなしさ」(ここで言うむなしさとは、苦しさ、悲しさ、寂しさ、無力感、喪失感、違和感など、心の中にある淀みのようなものをひっくるめて表現した言葉です。他にもっとふさわしい言葉があるかもしれませんが、今のところはこの言葉がしっくりきました)だと思います。

僕はこういったむなしさを「受け入れるべきむなしさ」と呼んでいます。生まれた場所、人種、性別、病気、障害、寿命があること、生きるために仕事をすること、食べていくために他の命を犠牲にすること、他人と関わること、他人よりも優れていたいと思う気持ち、清潔でいるために環境を破壊すること、贅沢をしたいと思うこと、子孫を残したいと思うこと、大切なものを守るための攻撃性も必要なこと、生きていくこと、などがそれにあたると思います。まだまだ他にもありますが、思い浮かんだものを断片的にあげました。

そして、もう一つ。「取り除くべきむなしさ」と呼んでいるものがあります。戦争、差別、偏見、格差、いじめ、自殺、殺人、過剰な欲望、家族間の問題、依存症やそこからくるトラブル、自分には価値が無いと思ってしまう心、楽しむ気力が無くなるほどの働き過ぎ、自分たちの居場所が無くなるほどの環境破壊、などがそれにあたると思います。こちらも思い浮かんだものをあげました。これらは、どうしてそうなるのかを考えて対処することで克服したり、生まないように出来るむなしさだと僕は思っています。

どのむなしさを受け入れて、どのむなしさを取り除くのか、よく考えて取捨選択をする。その判断基準は、人それぞれの部分と、全ての人に共通する部分があるのではないかと考えています。個人の中で、家族の中で、地域の中で、地球の中で、その折り合いをつけて、バランスを作り上げていく。

『受け入れるべきむなしさと、取り除くべきむなしさとの間にある、心地の良い居場所を一つずつ見つけていくこと』

これが一つ目の生きる目的です。

これについて、「恋人は欲しいけど、いない」というむなしさを例に説明してみます。顔が醜い、体型が醜い、卑屈になってる、高望みし過ぎ、人を見下してる、自信がない、仕事が出来ない、頭が悪い、出会いがない、恋人を作るのが恐い、等々。多分、この悩みを持つ多くの人が複数の問題を同時に抱えていて、その問題点の一つ一つがむなしさであるといえます。そこから何を受け入れて、何を取り除くのかを考えます。例えば、顔が醜いというむなしさを取り除きたい場合、現在では整形という方法があります。整形をすれば、綺麗な容姿を手に入れて、その容姿によって異性を魅了することで、恋人がいないというむなしさが取り除かれる可能性は高まるかもしれません。ですが、世の中には整形という方法を批判する人もいるので、その批判に晒されるというむなしさが反対側にはあります。あるいは、その批判も取り除くべきと考えて、それに向けて活動していくのもいいかもしれません。他にも、許容された地域に行ったり、知り合いと遭わないようにしながら隠し通すというむなしさを受け入れるのもいいかもしれません。

一つのむなしさを取り除くにしても、色々な問題点の見方や解決の方法、新たに生まれてきてしまうむなしさなど、複雑に絡んできます。色々な矛盾との葛藤です。

そして「恋人は欲しいけど、いない」というむなしさを「恋人は出来なくていい」ということで受け入れてしまえば、この問題自体が無くなります。実を言えば、それが今までの僕でした。でも、やっぱりそれでは心地良くありませんでした。恋人といることや、家族を持つことは、さらに多くのむなしさや葛藤を生むかもしれない恐さもあります。でも、欲しいと思うその気持ちは抑え込まずに受け入れるべきなんだと、今は思います。

数多くの対比の中で、自分自身にとって心地の良い居場所を見つけるのは物凄く大変な作業です。もしかしたら「深みのある人」というのは、その居場所を多く見つけている人なのかもしれません。

二つ目の生きる目的

ここまでは生きる上でのむなしさについて説明してきましたが、先ほど述べたように、その裏側には素晴らしさがあります。愛されて守られて育つこと、友達と遊ぶこと、何かを達成すること、旅行に行くこと、綺麗な景色を見て感動すること、素晴らしい映画を見て感動すること、贅沢をして満足すること、誰かを大好きになること、子供が生まれること、思うこと思われること、認めること認められること、楽しみな未来があること、生きていてよかったと思えること。

『人間として存在することのむなしさと、その裏にある素晴らしさを、置かれた状況の中でしっかりと味わうこと』

これが二つ目の生きる目的です。

世の中には色んな素晴らしさがあります。その全てを一生のうちに手に入れることは出来ません。また、生まれた場所、時代、肌の色、性別、性格、病気、経済状況、人間関係、等々。数多くの違いによっても手に入れられる素晴らしさは変わってきます。

置かれた状況の中でまず触れたもの、それを深くまで味わってみる。そして今度はその裏側にあるものを探ってみる。今、むなしさの深くにいる人は、その裏側に素晴らしさなんか無いと思うかもしれません。でも僕は、そのむなしさを知ることでやっと触れることの出来る素晴らしさが、その裏側にはあると思っています。大事なのはむなしさから逃げないこと。自分自身の今の感情や状況がどこから来ているのか、どうすれば克服出来るのかをしっかりと考えて、立ち向かうこと。その裏側にある素晴らしさにたどり着くまであきらめないことです。

生きることの素晴らしさを味わったのなら、今度はまたむなしさを味わってみて、それも深くまで味わったのなら、また素晴らしさを見つけに行けばいい。その先に何が有るのか、それとも無いのか、はっきりとは分かりませんが、それを繰り返す目的は

『感じとれる世界を広げる』

ということではないかと思っています。

僕自身も悩み始めてからの約8年間、むなしさばかりに目を向けてきたので、これからはまた素晴らしさを見つけに行こうと思います。

これから目指すもの

悩んできた僕ですが、何度も逃げてしまいたいと思っても、それでもあきらめずにここまで来れた理由は、やっぱり家族だったり、友達の存在があったからです。突き放さずにいてくれたことに凄く感謝しています。

今、もしあなたの近くに悩んでいる人がいて、その人を助けたいと思うなら、ただ必要としてあげてください。一緒に遊んだり、断られてもまた誘ったり、話をしたり聞いたり、一緒に笑って楽しんだり、ありがとうと言ったり。面倒くさいと思うかもしれないし、なんだよってイライラすることもあるかもしれないけど、お願いします。みんなに当てはまるかどうかは分からないけど、僕自身は実際そういうところで助けられたのかなと思います。

「縁側でお酒」

これが僕自身のこれから目指すものです。夕陽が沈むところを眺めながら、縁側に座って、そこでちょっといい日本酒を飲めたら最高だなと思います。隣に大好きな人がいればもっと素晴らしいし、子供達が走り回っててもいいかなぁ。走り回ってたと思ったら真ん中に割り込んできたりしてね…。まあ、妄想は広がっちゃうけど、飲むためのお酒だってそうだし、座るための縁側だってそう。その裏には色んな犠牲があって、むなしさがある。でも、やっぱり僕はそこに幸せを感じるし、その性は受け入れるべきだと、今は思っています。だから、そういったむなしさの隙間にこそ「感謝」が必要なんだとも思います。そして、その上で「幸せだなぁ」と実感することが「素晴らしさをしっかりと味わう」ということなんじゃないかと考えています。

不快だから、という理由で虫を殺したりする自分も嫌だったりしたけど、嫌なものは嫌だし、簡単には克服出来ないから、もうしょうがない。人間様に逆らうのが悪い、ごめん!っていう感じで殺してしまいます。まあ、逆らっちゃいないんだろうけど…人間は残酷で高慢だね。それも今は受け入れて、もう少し気持ちを楽に生きていこうと考えています。克服も出来たらいいなとは思うけどね。まだまだちっぽけだからしょうがない。

おわりに

これからもこのブログを通して、僕なりの視点で何かを発信していければいいなと思っています。小難しい感じでマイナス思考的なところはあるけど、そんな視点から…。

「なぜ生きる」とか偉そうなことを書いておいて、最後にこんな事を言ったら怒られてしまうかもしれないけど、本当に苦しかったら生きることから逃げてしまってもいいと思います。でも、僕は生まれ変わりみたいなものを信じているほうなので、死んじゃったあとはたくさん後悔して、そしてまた生まれて来ればいい。その時に生まれて来て良かったと思えるような世の中にするために、僕はもう少しだけ生きて、もう少しだけ頑張ってみようかなと思います。

焦らずに無理せずに手の届く範囲で…。